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ザウルストレイン
森下 久志
ESSAY: Hisashi Morishita


ESSAY TITLE



「トップウォーターバス釣りの楽しみ方」
日本初のあの本を初めて読んでから30年以上が過ぎた。
人生の折り返し地点にたどり着いた今もトップウォーターバス釣りは僕にとって今も止められない至極の遊びである。
中年になって分かってきたこと。
それはやはり僕にとってブラックバスはただの魚ではないようだ。
もちろん、ルアーにかかり、リールを巻き上げ、ボートに近づき下アゴに親指をかけキャッチしてしまえばその瞬間にブラックバスと言う魚であることを改めて、そうなんだと認識する。
当然、ブラックバスを釣ろうとしているのだけれど、その姿が見えるまでは一体、僕が求めている相手は何者なのだろうと惑わされる時がある。



昔、30年以上前、僕がルアーフィッシングを始めた頃にはブラックバスは本当に幻の魚だった。その頃、僕の住んでいた地方ではルアーで釣れる魚の代表選手はライギョだった。それ程大きくはなかったと思うが50~60センチのライギョがメインだった。ルアーで釣れるうえ、モンスターファイトが味わえる。ルアーを始めたばかりの僕らにとってはこれ以上のものは望めない至上のターゲットだった。当時、思い返せばそのライギョに僕は黄色のヒックリージョーを2個も取られた。そりゃそうだ、せいぜい10ポンドくらいのストレーンラインを使っているので良型が「バフッ!」とくればひとたまりもない。5秒ももたないうちにバイバイ!
オープンウォーターであればスプーンやスピナーの方がロスした時の痛みは少なかったがそれでも次第にルアーで釣ることよりもデカい魚のファイトだけを楽しむために僕らのライギョ釣りには生きたカエルを使ったブッ込み釣りへとフトし始める。
もちろんあの水面の爆発は病み付きになるが、ルアーで楽しむ損失を考えると実はライギョを釣ることにそろそろ疑問を感じ始めていた。
初めてブラックバスを釣ったのは14歳になる春だった。
そこは自転車で片道1時間半、3年近く通い続けてきたダム湖だったが未だに釣れない。
しかしそこにバスがいることは間違いない。
前の年の秋に友人が偶然、30センチくらいのブラックバスを僕らの目の前で釣り上げた。
昼過ぎ、みんなくたびれて座り込んで漫然とキャストしてひたすら巻いていたクランクベイトにその一匹はきた。
仲間は騒然となった。
「これがブラックバスか・・・」
そして僕の心に大きな炎が灯った。
お年玉と新聞配達で買ったロッドとリール。
そして冬の間に練習してやっと習得したベイトキャスティングに金のフックがついたやたらと高価なプラグ。ダブルクリンチノットも完璧にマスターした。
そのルアーをラインに結んだだけで前年の自分からは一皮むけたまるで違う自分になったようだった。
春休みに入る前日、3学期の終業式が終わってから一人でそのダム湖へ向かった。
ポイントに着いたのは午後の4時頃だった。
小さな流れ込みがあるワンド。
地形はそこから本湖に向かって細くくびれてさらに左に曲がって続いていく。
細くくびれたところに橋がかかっている。
その日のポイントは橋の直下、さらに小さなワンドを形成しているちょっとしたシャローと急なかけ上がりの組み合わせ。
キャスティングのために急な坂を水辺に降りていくにも相当に気を付けなければならない。
うす暗い春の曇り空の夕方。
春の午後は風が強い。
それは高気圧が近づく晴れ日であって、曇った日の夕方は特に風もない。
きっと低気圧の影響だ。
枯れ草と砂利にスニーカーが埋もれる。石ころや枝、土、一切を水面に落とさないように慎重に歩を進める。
全財産をつぎ込んだタックルボックスを片手に急な斜面を降りていく。
当時はまだトップウォーターで狙う釣りではなく、とにかく何が何でもブラックバスを釣りたいバス釣りの時代だった。「ブラックバス釣りの楽しみ方」にはザラよりもザラⅡの方が初心者に配慮した、そう書いてあったので当然、ザラⅡも持っていたがその動かし方を知らなかった僕にはいくらやっても真っ直ぐにしか動かない。首を振らせるとは書いてあるもののその術を知らない、僕のバス釣りはそんな頃だった。
ルアーはその年のお年玉で買ったルアーうちの一つ、バルサ50オリジナルJr.のスケールグリーン。ルアーパッケージにはそのルアーの使い方が書かれていて、それによると春は着水後すぐにリトリーブせよ、そう書かれていたと思う。
思い返せば確かポイント選びにも言及されていた気がする。
そうでなければこの日僕がこのポイントを選ぶ理由が思い出せない。
冬の間、そのパッケージや雑誌をずっと眺めて、夢の中で何度も何度も頭の中でリハーサルしたに違いない少年。夕方めがけて一人で出掛けるところに多少の見込みが感じられる。
少し寒さも緩み始めた春の夕暮れの空気感。
今考えれば全てが完璧に整った最高の情景だったに違いない。




静かな湖面へ第一投。
ラインは粉っぽいストレーンの10Lb.
バックラッシュもせずにワンドの端に大きくせり出した岩の右側、まずまずの所にプラグは着水した。
猛特訓の成果だとすればそれくらいできて当たり前。
そう、何てったってオレはあの「ブラックバス」を狙っているんだから。
安心する間もなくリールを巻く。
早く巻いたのか遅く巻いたのか、覚えていない。
ただリールを巻いた。
クランクベイトの振動がブルブルブルっと手元に微かに伝わってきた。
そう思ったその直後、水中のラインの向うで何かの抵抗を感じた。
何かが掛ったんだ。
手元に伝わるのは生きた強固な意思を感じさせる力。13歳の僕にとって特別な事がこの瞬間に始まった。
この瞬間のためにそろえた道具が、このシチュエーションが全てを特別な事に思わせてくれる。 いまオレは間違いなく最高だ!!
グラスロッドが引き込まれさらに曲がり、ラインは走り、そしてそいつは水面を割って姿を見せた。
人生のクライマックスの第一幕が目の前で繰り広げられる。
春の夕暮れ、白昼夢に引きずり込まれた僕にはその正体が何なのか、まだ分からない。
それでも案外、気持ちは落ち着いていた。
ライギョで鍛えた僕はパニックにはならず案外、冷静にやり取り出来たと思う。
その瞬間に僕が対峙していたのはきっとブラックバスではなかったのではないだろうかとさえ思う。では何者だったのだろうか。
しかし、その魚を足元に寄せてきた時、その姿をハッキリと見た時、全身全霊がさらに燃え上がった。
写真を見て覚えた所作、その通りに生まれて初めてバスの下あごに親指を懸けた。

「やっとブラックバスに出会えた・・・」
残念ながらステージはトップではなかった。
それでも今も忘れない一生に一度の出会い、初めて釣ったブラックバス。
リザーバー育ちの濃い緑色で腹の白いゲームフィッシュ、それがブラックバスだった。
以来、僕の釣り遍歴はフライをやったり海の大物に傾倒したりしてきたが今はサクラマスをはじめとした大型の鱒と渓流、そしてトップウォーターバス釣りへと狭まってきている。人生、折り返し地点付近をウロウロし始めたのだからあれこれと欲張りになるよりも自分が本当に好きなことだけ見つめ直す時期にきていると直感している。当然、釣りは何でも好きなのだからこの取捨選択には心が苦しい。
ブラックバス釣りの楽しみ方。
ブラックバスの釣り方なら他の方法を求めればいい。

あの頃を思い出しながら今日もまた夕方、日が傾き始める頃に湖面に向かう。
迷いに迷った末に選んだプラグにラインを結ぶ。
ボックスには結構、沢山のプラグが入っているが途中でプラグを交換する気なんか毛頭ない。この一日を完結させるためにその時の直感で自分が選んだ一つのプラグを信じて押し通すパワープレイ。そうでなければならないような気がしている。
もし誘い出せなければ今日のこのゲーム、バスのもの。
もし誘い出せればその一匹とは二度と出会うことのない僕だけの忘れられない記憶の1ページを増やすことになるだろう。
夕刻の始まりはいつも優しい。
斜めに差し込む光が影を長く創りだす。    
次第に風が止み、湖面も空気もいよいよ磨かれ、さらに怪しく透きとおって精気を放つ。
昼は過ぎ、しかし夜には早い曖昧な時間帯。
景色は輝きながら次第にオレンジからスカーレットに染まり始める。
そのただ中にいて僕は溶けて、巻き込まれて、次第に正体をなくしていく。
静寂の中に放たれたプラグは緩やかに放物線を描き、そして静かに水面に落ち、やがて波紋も時間の狭間に溶けて静かに消えてゆく。
自然のみが支配する決して気の抜けない息苦しいほどの緊迫。
陽が傾き遠くの峰に隠れると暗闇はまず水面からやってくる。
そしてますます辺りの気配は濃密になる。
空気の粘度が増し、僕はこの怪しい時間にどんどんのめり込んでゆく。
この一瞬を逃すまいと夢中になって我を忘れて、まるで何かに取り憑かれたようにただひたすらにキャストを繰り返す。どれだけ自分の正気を保てるか。
魔が差すようにこの時間だけは確かに何かが僕の中に入ってくるような気がする。
暗い水面に浮いた僕がキャストしたプラグをじっと凝視しているのは僕だけではない。
逆光の水面に浮いたプラグを見上げているその魂の欠片は何者なのだろうか。
ただの魚ではないことだけは確かだ。
だってこんなにもエサとはかけ離れた形の、色の、動きのトップウォータープラグにムキになって一匹の魚が襲いかかる訳が無いじゃないか。

それじゃ、一体何なのだ。
姿を変えた精霊か、妖精か、魔物か。
僕は一体、何者と対峙しているのだろうか・・・

そんな空想を掻き立ててくれるのがまさにブラックバスという魚だ。
アメリカからやって来たゲームフィッシュ。

夕闇に紛れて僕の心に今でも不思議な魔法をかけてくる。
だから僕らはこんなにも夢中にさせられる。
ダスク、トワイライトゾーン、マジックアワー、ナイトフォール・・・
何かが起きる不思議な時間帯。
トップウォーターバス釣りが一番似合う素敵な時間。
トップウォーターでバスを釣るのが一番ワクワクする最高の時間。
夢中になり過ぎてうっかり踏み外すと帰ってこられなくなるかも。
この感覚は僕らトップウォーター・バスアングラーにしか分からないだろう。
夕闇のあの終わりゆく刹那、しかしあの始まりの心ときめく瞬間を。
どうすればもっとみんなに伝えられるのだろう、この素敵な時間の最高の楽しみ方。

トップウォーターゲームで釣るブラックバスは僕にとって何なのだろう。
今日も答えは見つからなかった。さぁ、もう十分だ、上がろう。
結果はどうあれ、気付けに強い酒をグッと一杯やればそれだけで全ての緊張が解けてすぐにいつもの自分に戻れるだろう。
僕が教えられたバス釣りはその全てのプロセスが美しく、優しく、僕を包んでくれる。
今もブラックバス釣りは僕の人生の最も大切な一片であることだけは間違いないようだ。


追伸
則さん、今でも夕方には50を投げていますか。
2013年もおもしろくなりそうです。
ぜひ夕方のあのバスポンドでやりましょう。



That's It!

~ ハックルベリー・フィンとスターリング・ノースとオールドグランド・ダッド ~

アメリカという国は建国以来の歴史が浅いだけに当地の学生たちの歴史の学習は細部にわたる。学生達が学ぶアメリカ史は一つ一つの事象に関し何年何月おおよそ何時ごろ、どこの州の何処其処で、ここまでがテストへの範囲となる。あぁ、面倒くさい・・・
そんな新しい国家、アメリカの文壇には世界的な巨匠が綺羅星の如く幾人も登場している。その中でもやはり我々、釣り人にとって興味がありそうな作品はアーネスト・ミラー・ヘミングウェイの『老人と海』であろうか。巨大カジキと老人の昼夜を越えた死闘に例えられた彼の人生観。この作品はすでに精読された方々も多いと思うので私的な思い込みを紹介させて下さい。ヘミングウェイの短編集は特に面白い。主人公ニック・アダムズが織り成す物語の背景には釣りの物語が多く、読んでいて飽きない。加えて釣師であったヘミングウェイが描いた当時のアウトドアのスタイル、それにネイティブトラウトの素晴らしさはいかばかりであろうと想像を激しく掻き立てる。それから野点のコーヒーには妙に魅かれずにはいられない。

彼のどの作品もヘミングウェイの戦争経験と家族の問題などが原因と思われる死や転落に対する刹那的な感情が付きまとう。その描写はぜひ本書を読んで味わっていただきたい。これらの短編を読むにはアーネスト本人の生い立ちや当時のアメリカ社会の背景を簡単に整理してから取りかかると面白さに厚みが増すと感じる。そうなると欲が出てきて今度は翻訳家がもう少しだけ、釣りやアウトドアに精通した方であれば、とつくづく思う。この辺の事情を考慮するとやはり原文を読み自分なりに納得するに限るがこれもなかなかハードルが高い。

そこで同じくアメリカ文学の古典の名作で水辺、そしてアウトドアのエッセンス薫る作品を二つ。
我々、釣り人、アウトドアマンにとって興味をそそられるのはマーク・トゥエインの『ハックルベリー・フィンの冒険』、そしてスターリング・ノースの『はるかなる我がラスカル』となるはずだ。

これらは決して児童文学ではないことはここに断言しておく。
時代背景は少々異なるものの、どちらの作品も少年が主人公であって、彼らの成長をアメリカの成長と重ね合わせ1700年代の独立の騒乱、1800年代前半のワイルド・ウェストを越えアメリカという国がもっと豊かに輝く時代の過渡期を背景にその時代を、彼らの輝く青春期を少年たちが全力で駆け抜ける姿が描かれている、と感じるのである。
『ハックルベリー・フィンの冒険』はアル中の父親と暮らす母親のいない浮浪少年と自由を求める黒人奴隷の逃避行。ミシシッピリバー沿いのアメリカ南部の光と影、奴隷制度と解放宣言。間違いなく少年、マーク・トゥエイン自身の回想記であろう。当然、親友のトム・ソーヤとのドタバタも面白い。『トム・ソーヤの冒険』との違いは、もうご自身で感じて頂くのが最良である。
きっとトム自身が彼「サミュエル・ラングホーン・クレメンズ」自身なのだろう。
ヘミングウェイの『アフリカの緑の丘』では「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」、と記されている。そしてこれだけはもう一度、女性翻訳家には申し訳ないのだがくれぐれも翻訳者は少年の冒険心を理解してくれるであろう男性の翻訳家の作品の方がよろしい。探せばある。

方や『はるかなる我ラスカル』では裕福な家庭に育ったが幼くして母親を亡くし、父親とも離れ姉夫婦に引き取られていくスターリング自身の少年期の回想記。
少々、上品な物語のこちらはもう釣りの雰囲気がプンプン。とにかく読んでいて楽しい。キャンプやカヌーの描写はもちろん、川スズキはブラックバスでカマスはパイクのことだろう。辞書で引いたこの表現、何とかならぬものか。それなのにスターリング少年は「ブルーレー川のマスは魚籠に入れるにはあまりにも美しかった」、と記してある。これだけのことを書けるならカマスは川の魚でないことぐらい分からぬものだろうか。だからと言って当然、カワカマスでもなかろう。ただ一言パイクという単語を探し当てずに機械的に訳すだけであれば今どきスマホでもできるぞ!

ウェットフライはぬれ毛バリ、疑似バリはもちろんルアーだが、「ミミズににせた擬似バリ」とはワームのことであろうがプラスチック製は到底ないので恐らくポークリンドであろう、などと多少、難易度の高い描写は想像を巡らせた楽しむほか無さそうだ。変に「豚皮を使いミミズに似せて作られた疑似バリ」なんて書かれては興醒めであろう。
問題はスターリング・ノースの作品に至っては新書、新版での入手困難であることか。
感動を手にするには悩みは尽きない。
あの頃、時代を全力で駆けていた僕らの少年期を思い起こさせてくれる2作。
さて、この冬のシーズンオフにどの銘柄のケンタッキーウイスキーと一緒にこれらの名作を読むべきか。
これ以外に他に思いつく酒がありますか!
当然、オールドグランド・ダッドで決まりだろう。
バーボン通の貴兄にいまさら小生がこの偉大なバーボンに関してくどくどと詳説するつもりは毛頭ないが、唯一ソーダ割り、いわゆるハイボールには86プルーフが好ましいであろうことだけは改めて付しておきたい。小生の激奨である。
ケンタッキーには小さな昔ながらの正統派の蒸留所があったりするんだろうなー。
いつかは行かねば!



(2012年12月)




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