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トップノッチ
ESSAY: Top Notch


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イタリアのボローニャの北、モデナにある『グッチャルディ』というバイオリンメーカーの工房を訪ねていた時、則さんから電話が入った。



「おいっ、トップノッチ。お前どこにいるんだ~、電話の音がへんだぞ~。」
「今、イタリアです。」
「そうか、お前も忙しそうだなあ...釣りは旅だからな~。最近釣りと言えば魚を釣ることしか頭にない奴ばかりなんだよな~。君の感性でそこんとこ原稿に書いてくれないか。」


僕はイタリアに釣りに来たわけではないが、則さんが言いたい事はよくわかる。
釣りを通して感じる生き方は、何においても通じるものがある。




訪れていた『グッチャルディ』でバイオリンを製作しているのはジャン・カルロ・グッチャルディという職人である。彼の創るバイオリンは、新作の楽器としては世界一高い値段で売れており、日本円で約550万円するのだが、注文が3年分たまっているので出来上がるまで3年待たなければならない。

そんな彼の楽器のコピー品、つまり贋作がインタネットオークションなどに時々出品されていることを、彼も知っていた。
そのことについて彼はこう言っていた。


「死んだ芸術家のものはまだしも、まだ生きている私のコピーを作ってどうするのか?」
「何故、自分の表現をしないのか?」


僕もまったくその通りだと思う。物作りは自分の表現を形にするものであり、表現がなければ作る意味がない。
コピーを作る目的は2つある。
1つは、そのコピーする技術を評価されたいというアピール。 しかし、技術は見せるためのものではなくて、表現をするために必要なものだ。見せるための技術ほど醜いものはないだろう。 2つ目は、お金儲け、いわゆる商売だ。

ルアーにおいてもコピーが存在する。同じようなルアーとしか思えないようなものがあるが、ただ商売のためや自社のオリジナルが欲しいというだけで何かを作っても、自分の中に本当に表現したいテーマがなければ決していいものはできないだろう。


翌日、ミラノに向う途中のユーロスターから二人の釣り人を見かけた。

木製のカヌーに犬を乗せ、タバコをふかしながらスピニングリールを片手で投げるチョイワル風のおやじだ。もう一人は広大な畑の間にできた野池に、上半身裸で真っ黒に日焼けした筋肉質な男が両手で太い竿を投げている姿だ。
一瞬ではあるが、いずれのスタイルも何かその釣り人の人生観のようなものが見える気がした。

イタリアの暮らしは信じられないほどのんびりしている。
昼休みは12時から3時までで、レストラン以外の店は殆ど閉まっている。
しかも3時になったら必ず開くというわけではなく、4時、5時まで昼休みをしている店もある。殆ど1日が終わってしまっているのに気にしない。もちろんコンビニもない。こんなにゆっくりしていて何故これだけの経済力があるのか不思議に思う。そんなイタリアで食べる食事が妙に美味い。
レストランのテーブルは一晩で1組だけで、きれいに片付けて2組目なんてこともしない。

彼らはお金ではない豊かさを求めて生きている。


街には芸術があふれ、柱一本立てるのもどう表現するかを優先する。日本では地震のせいもあるが、いかに低コストで軽いハイテク素材を・・・などと求め続けて今日の経済力があるのだが、豊かな心は減っているように思う。確かに自由や便利、娯楽はあふれているが、これが本当の幸せといえるのだろうか。


ミラノに着いて夏の釣りのためにボルサリーノの帽子を買った。
イタリアの物は技術的に特別に上手いと言うわけではないが、やはり独特のイタリアンテイストがある。
バイオリンもそうだ。どんなにうまくコピーをつくってもこの独特のイタリアンテイストの音が出せない。このテイストはイタリアの空気の中で、このゆったりとした時間の中でなければ創り出せないのだろう。


日本に帰る途中、無性に釣りをしたくなった。 そして、帰国した翌日、いつもの野池へと向った。



そこには魚を釣るだけが目的ではない、豊かな心を求めて釣りをする自分がいた。

カヌーの上、ボルサリーノの帽子をかぶり、バルサ50を投げながら・・・。


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