「チュンチュン、チュン」
海に面した草原で出発前の一夜をキャンパーで過ごし、早朝はスズメたちの柔らかいさえずりで静かに始まった。
澄み切った秋の空、心地よいそよ風が僕の頬をなでながら天高く舞い上がる。ススキの穂が柔らかくしなやかに、小鳥たちのハーモニーにタクトを振っている。
9月末、新潟港から小樽に向けてフェリーで旅立つ、僕のはやる気持ちをなだめるような穏やかな朝を迎えた。
「この様子なら、フェリーの揺れは大丈夫そうだ・・・。」
こう、楽観的に考えようと必死であるのだが、実は不安で、もう心がグラグラ揺れている。
この飛騨に住むツキノワグマの小熊には、船が絶対的な天敵。ベタなぎでも船を見ただけで生唾が逆流してくるのである。自慢じゃないが、過去船に乗った回数と船酔いの回数は、ほぼ同数と言っても過言ではない。「オフショアーでも行きますか!」なんて誘われると、全身の毛が逆立ってしまうほど恐怖を覚える。ほんとに情けない、ショボイ小熊だ。
不安の中、スムーズに乗船して、とにかく酒を飲んで酔っ払って寝てしまおうとたくらみ、先ずビールを購入。
とそこで船内アナウンスが・・・。
「本日は強風のため、船外、デッキへの立ち入りは禁止とさせて・・・・。」
後は、語るも無残。350mlのビールを飲み干すこともできず、北海道到着まで胃袋が空っぽのままひたすら横たわって時の過ぎ行くのを待つのみ。冬眠する小熊のようにカプセルベッドのアナグラでひたすら耐え忍ぶのであった。
これから始まる嵐のような出来事の、前兆のように。
アメマス、アーメン。
北海道で合流する仲間たちより1日早く前乗りした僕は、ウオーミングアップにレインボーを狙うことにした。
グッドサイズ50cmオーバーのブロードバンドに出会い、出だし良く旅は始まった。
そしていよいよ、今回の大本命の一つ道東の巨大アメマスにチャレンジだ。目的の川は川通し出来るほど小さな川で、「本当にこの川で巨アメ?」と一瞬疑ってしまった。
川を覗く。50cm前後の大きな魚の大群が目に入る。目をじっくり凝らすと、鰭の縁が白い。
「間違いなく大岩魚!アメマスの群れだ!本当かよ!?」
白樺とのコントラストがよりまぶしく、普段くすぶっている小熊の野生に火をつける。
時間はたっぷりあるのに、とにかく慌てている。「急げ、急ぐんだ。」
何故にそんなに急ぐのか?いつも疑問に思うがなおらない。
絶対自信の
CDレックス7cm、金赤を結ぶ。
キャスト。「よし、なじませてトゥイッチ!・・・・って?あれ?」
「ピッッ、ピッッ、ピピッッ。」ロッドティップがトゥイッチのピッチを奏でる。
「お、おい・・。本当かよ。」
チェイスどころか、群れが散ってゆく。
ポツリポツリと40cmアップのアメマスは釣れてくるが、丸太のようなやつがうようよ泳いでいるのに反応無し。はっきり言って苦戦している。
後ろでビデオカメラが回っている。
カメラマンからジャブが入る。
「ヒデさん。暗くなっちゃうから早くでかいやつ釣ってくださいよ!」
猛烈なプレッシャーが後ろからかかる。
そして、不完全燃焼の夕日は、秋のつるべ落としに沈んでいった。激しい心臓の鼓動だけが薄暮に沈んでいった。
巣に帰るおなじみの鳥の群れが、敗北者の気分をさらに押しつぶす。
「カー、カー、カァー。カァーッ。」
「北海道にもカラスがいるのか。それも本州のやつよりもでかいんじゃないの?」
どうも「カー、カー。」が「アホー、アホー。」に聞こえてしょうがない。
「もうほっといてくれよ。」
2日目リベンジをかけて、シューズの紐をさらに強く締める。
「おいヒデ。今日はこれでやろうよ。」
師の則さんが声をかけてきた。手には最終プロトのベイトキャスター50MLと60M。「おれはこれでやるから。」師は6フィートのミディアムアクションのベイトロッドを手にした。必然的に僕は5フィートのショートロッド。それもMライトアクションだ。
「やっぱり、僕がこっちですか。」
ボロンコンポジットのハードバットとは言っても、小中規模河川の40cm~50cmトラウトをマックスに設定している。この川のトラウトのサイズを考えると不安がよぎる。
そして魚をなめていた。
70cmが目標だと言ったって、アメマス。岩魚特有のトルキーでグネグネしたファイトは想像がつく。
「70cm有っても、なんとか5フィートでいけるだろう。」
この甘い考えが、衝撃の体験が始まる序章であったのだ。
午前から降り出した雨がドラマの始まりを告げていた。
「ドスン! ビーン ギラギラ ギラ ビューン!」
「なんなのだ、これは!イワナじゃねーぞこの引きは!」
まるでシイラかカツオがヒットしたように、すごいスピードでヒットと同時にフラッシュする。
「ドッバーン!」
と、飛ぶのか?!イワナがジャンプするのか!強い。強すぎる。思わず息を呑んだ。猛烈に瀬の中を走り回り、ギランギランの閃光が走りアングラーを引きずりまわしている。
「まるで、スチールヘッドだ!」かつて、ロシアのカムチャツカで完膚なきまでにやられた、あの究極のトラウトが脳裏に浮かぶ。
60cm近いサイズになると、まるで引きが変わってくる。アメマスがスピード?本当かよって、アメマスや大イワナを釣った経験の有る賢明な皆さんなら思うでしょう。ところがどっこい大げさではなく、この川のアメマスのファイトは想像を超える強さを見せてくれた。
雨が呼んだかアメマス。俄然活性が上がって大型もヒットするようになった。
「ロッドがやばいよな。70cmが来たらこれちょっと獲れないよ。」
独り言のパワーが段々とトーンダウンしてゆく。
10メートルほど離れて、馬鹿当たりし始めた森下氏は60cmがらみも混じって50cmアップを連発しながら、「オーーーッツ!」「ウワオーツツ!」と獣の種類が特定できないような雄叫びを上げている。
その彼の手にはインターの
マルチパーパス55ベイト。魚のサイズとパワーを考えると、まさにジャストマッチの選択だ。ファイトも僕の約半分の時間でしとめている。したがって二人とも爆釣とはいえ、モリは僕の2倍のペースで釣り上げている。
「雑になっちゃいけないよ。雑に。」
森下氏を横目にうらやましくて小言が出てしまうが、自分がピンチに落ち入っていることは
よくわかっている。「漁師じゃないんだ、楽しんで釣らなきゃ・・・。」もう、自虐的になってきた。
50cmオーバーのアメマスにもぎりぎりのファイトで時間をかけて何とかランディングしている。なんせショートロッドのライトロッド。
グリップはファイトを楽しむために超ショートグリップの設計。
そのうち手首がやられてきた。
ついにクライマックスが訪れる。
雨はますます強く、土砂降りの中、少し増水してきた。笹にごりまでは行かないが、少し濁りも入って最高の条件でプライムタイムを迎えるのだ。
相変わらず、森下氏も僕もヒットが続く。50cm台だと小ぶりに見えるぐらい贅沢な釣りをしている。
「ラストパラダイスだ。すごい、ス・ゴ・ス・ギ・ル!。」興奮を通り越してナチュラルハイになっている。「一体ここは何処なのか。」
そして、たっぷりとアメマスがストックされた、今までにもまして水通しの良い瀬に当たりまたしてもヒットが続く。
でも、なんとなくいやな予感がする。こういった予感はおうおうにして当たるものなのだ。
そしてその時、生涯の記憶に深く刻まれることとなる、「獣とのファイト」が始まる。
「ズズ、ズドン!モゾモゾ。」「うん?根がかり?」
反射的に合わせを入れる。
「ドバッッ、 ギーン、 ズズ、 ズズズズズズッッ。」
ドラッグが無残にもズルズルに滑っていく。「で、でかいぞ!」
「ヒデさん。でかいですよ、60cm以上有りますよ。」と森下氏が声をかける。
声が出ない。心が叫んでいる。
『冗談じゃない、60cmどころじゃない。とてつもなくでかいぞ!』
あきらかに桁が違う相手がアルミの巨大なフラッシュ版を水中で煽っているように強く激しく膨大にフラッシュしている。
ロッドがきゃしゃだ、これ以上ドラッグは絞れない。シャフトがぎしぎし言っている。無理をすると折れる。
「アハハー!ヒデさん、のされてやがんの!アハハハ。」と森下氏が指を指して大笑いしている。憎らしいぐらいうれしそうに大笑いしている。
「モリ、もうだ、だめだ。限界を超えてるよ。」完全に弱音を吐いている。
体も反りきっている。瀬の上から下まで面白いように引きずりまわされている。
何とかサイドプレッシャーとボウをしながら耐えるしかない。
いつかのロシア・コッピ川で則さんが1メーター20センチオーバーのイトウを
60トゥイッチンでヒットさせた光景が脳裏をよぎった。
あの時僕は則さんの傍らにいて、ファイトの一部始終をビデオカメラを回しながらじっくり見ていた。あの時の則さんもさすがに無言でひたすら引きに耐えていた。
「よしそうだ、あの時の師を思い起こしてファイトしよう。これはきっとイトウだ。アメマスじゃないぞ。」自分に嘘をついてまで落ち着いてファイトをしようとするが、心臓が口から飛び出しそうに、吐き気が増してくるだけだ。
「だめだ、やっぱりアメマスだ。それも見たことのないような巨大な!・・・モリ、もうだめかもしれない。いやもうだめだ。」声は届かない。
そして開き直るほど僕は人間が出来ていない。
ひざが震える僕を横目に、「ウヒョーッッ!」といやらしい声を発する森下氏があっという間に2本、50オーバーのアメマスをキャッチ&リリースしている。
どのくらいの時間が経過しただろうか。僕には数十分にも感じられる。
瀬の中を頭から開きまで10往復以上は僕を引きずりまわした、川の猛獣はさすがにスピードが鈍ってじわりじわりと距離が詰まってきた。
「よし、ラインを巻き過ぎないように距離を置いて自動車バックだ。」
師匠直伝の自動車バック。でかい魚は距離を置いてバックしながら川原にずり上げるのがベストのランディング方法だ。1段落ちると、テトラがある。どうしてもこの瀬で勝負をつける。
ゆっくりとバック。そしてついに、浅瀬まで寄ってきてその巨体を横たえた。
もうこれ以上はずり上げられない。
「モリ!助けて!ずりあげてくれ!」
森下氏が走ってきた。「アッッ!アメマス、横になってやがんの。アハハ!」
笑ってやがる。何故笑っているのだ、僕は必死だ。早くしてくれ。
森下氏が最後は魚体を川原にずり上げるサポートをしてくれた。
「で、でかいですよ!ヒデさん。」笑っていたモリも真顔になった。
(だからデカイって言っただろうが!)叫びたいが息が上がって言葉が出ない。口がカラカラに渇いている。のどもカラカラに渇いてガサガサする。
これが本当に「のどが渇く」ということなのか。
森下氏がスケールを当てる。「よし、80cmアップ。」計測にはシビアな男だ。
もう一度スケールを当てる「間違いない、ヒデさん、80オーバーですよ。」
「で、でかい。」後は絶句。自分の釣ったアメマスだが、まるで人ごとのように魚のでかさに驚いてしまった。
写真を土砂降りの中撮り終えると、次世代の大型魚の遺伝子が繋がるよう祈って川に返してあげた。
生涯に残る壮絶なファイトであった。
その夜は、師匠や仲間にお祝いをしてもらった。スパークリングワインで乾杯。
師匠の声が響く「全員起立!」
ビッグトラウトを獲って師匠にお祝いしてもらったことは過去に何回かあるが、起立してまでのお祝いと乾杯は初体験だ。師匠から「80もすごいが、ショートロッドでライトロッドで、ライトラインで獲ったのがより価値がある。」と珍しくお褒めの言葉。
辛口で、めったに人を褒めない岩井も「アメマスの80センチはイトウの1メートルに匹敵しますよ。」
実感がこみ上げてきた。あれほどワインに執着のある僕もこの日に乾杯したスパークリングワインの名前が思い出せない。
それほどまでに、大きな夢を見ることが出来た、人生最良の日のうちの1日であった。
そしてメモリアルトラウトを手にした僕はこの後、幾多の災難に見舞われる。
イワナ(=アメマス)と言うと、昔話でも淵の主との例えや、お坊さんに化けて訪れた話など。化けて出たり、淵の主を釣り上げると祟りが起きると語り継がれている。
古い話だが、10年以上前60cmにせまる巨大なイワナを地元M川本流の瀬の中で釣り上げた。
ミノーのフックは口と左の頭、眼の上にしっかりフッキングされており、がっちりゲットできた。ところがである。「イワナってこんなにも血が出るの?」友とその大岩魚を見つめながら2人、おびただしい血の量に恐れをなしていた。ウエーダーや、ベストは血だらけである。
その数日後、僕の顔面はあの大イワナの顔にフッキングして血だらけになっていた箇所と全く同じ場所の神経が、95パーセント断裂する「顔面神経マヒ」で2週間の入院を余儀なくされた。原因は不明である。
僕の友人で大イワナを釣り上げた仲間たちは、崖から落ちて入院したやつや、岩山から滑落してかろうじてリールが引っかかって助かったやつや、川原で転倒して腰を痛めたやつなど、何かしら不思議な災いが起きている。大イワナを釣ると何かが起きると仲間では語り継がれている。
余談ではあるが、昨年、飛騨の某小規模渓流で河川規模からは考えられないような60cmアップの巨大な天然大イワナが釣り上げられた。
間違いなくその川の主だ。
その記事が紹介された地元新聞の、1週間後のお悔やみ欄に、例のイワナを釣り上げた50代の男性が心臓発作で急死と掲載された。僕はこれを単なる偶然として受け入れることがどうしても出来ない。
そして今回の巨大なアメマス。
災いはすぐにやってきた。それも束をなしてやってきた。
ベイトキャスターZYリンクス71のトップガイドSICが欠けてしまって使用不可能に。
キャンパーのライトを消し忘れエンジンがかからず、空腹の師匠を1時間置き去り。このときは岩井が察していたのか車をピックアップに行き、その間僕と不機嫌なヒグマ(師匠の則氏)が約1時間2人っきり。「消し忘れた私が悪うございました。ごめんなさい。」
その後、道北で巨大なイトウは逃がしてしまうわ、ウエーダーは2本とも破れるわ、など散々。
おまけに車の前を(ほんものの)ヒグマの子供は横断するわ、15メートルはなれた林の中でバキバキと(ほんものの)ヒグマが音を立ててあわてて森下氏と二人で逃げ出したり・・・。
細かい災難はもっと沢山あった。その間、何度(師匠の)ヒグマの逆鱗に触れたことか・・・。
そして極めつけの怪奇現象がおこった。
昼寝をしてすこし窓が開いてはいたのだが、走行中のキャンパーにものすごい突風が突然吹き込んできたのだ。
2階ロフト部分の棚に、今回の旅費数万円が封筒に入ってしまってある。
その他、JAFの書類や、帰りのエアーチケットなど貴重なものをしまっておいた。
「ブーン、バタバタバタッッ。」一瞬何が起こったのかわからない。
お札が車の中を舞っている。
慌ててお札を拾おうと大慌ての私を、全員指を指して大笑いしている。「笑いすぎだ!」あせって拾い集めている姿に、自分でも失笑している。
拾い集めたがどうしても2枚ほど足りない。外に飛んでいったのだろうか。ガックリと肩を落とす。
しかし、どう考えてもおかしいのだ。お金の入った封筒はそのままの場所に残っていて、中の札だけ飛び出して風に飛び散って車内を舞った。封筒も、エアーチケットも書類も全く動かずそのままの状態で残っていた。
間違いなく巨大アメマスのたたりだ。
北海道の仲間によると、メーターオーバーイトウの祟りはもっとすごいらしい。
仲間うちでメーターオーバーのイトウを釣ったメンバーが(則さん以外で)3人いるのだが、その後みな恐ろしい不幸を背負うことになった。
絶望と言う悪夢が襲った。
その中でもKさんはメーターオーバーイトウと80オーバーアメマスの二冠を達成している。
詳しく、どんな不幸が起こったのかたずねる勇気は僕にはない。
ましてや師の則さんは何本もメーターオーバーを仕留めているが、その都度なにが起きたか?など恐ろしくて想像もしたくない。
いや、全てを超越するぐらいの強運の星の下の生まれた方に違いない。
そんな祟りがあっても、メーターオーバーが釣りたいのかって?
それでもやはり、国内メーターは生涯の夢なのだ。一生かかっても神の領域にふれたい。
そして懲りずに年内、もう一回北海道に釣行に出かける予定でいる。10月中旬。もうすでに北国から雪の便りが届いている。
極寒のガイドも凍る釣り。吹き荒れるブリザード。それでも、僕は夢を求めて北の大地を目指す。
おそらく魂が朽ちるまで夢を追い続けているのだろう。心は常に大河に置いたまま、今日も雑踏で生かされている。
永遠に尽きない幻を求めて。
P.S.
ヒグマとツキノワグマの大きな違いは、先ずはサイズ。当然ヒグマがでかい。
そして性格。ツキノワグマは実は臆病で、よほどの鉢合わせか子連れで子供を守ろうとする以外は人を襲うことはまれだ。
対してヒグマは強暴だ。人をマジで襲ったり、人食い熊なんてのもいるらしい。
僕は間違いなくツキノワグマのほう。それも小熊です。(失笑)
田中 秀人