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SAURUS > エッセイ > 則弘祐 > 「アイ・リメンバー・クリフォード。」ブラウニー物語
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ザウルス・スーパーバイザー
則 弘祐
ESSAY: Hirosuke Nori


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ひとは僕のことを雨男だと言う。
いやいやそうではない。雨ではなくて台風だ。とも言う。
言われてみてたしかにそうだ。移動のたびに天気が荒れる。
現地に着くと二日目くらいには落ちつくのだが、動くたびに必ず荒れる。前日までは穏やかで良い天気なのに、何故か荒れるのだ。

今年もそうだった。



雨が降ると川は増水し釣りにならない。特に本流はそうで、バスポンドも風が吹くと満足なトップウォーターはできない。
おまけに春先に不覚にも左足の親指を複雑骨折してしまい、ギプスをしたままでは釣りに行けぬ。忸怩たる思いで三ヶ月が過ぎ、やっと釣りに行けるようになって、何の呪いか、待っていたかのように前線が、熱低が追いかけるように北上してくる。何というこった。誰かの呪咀か。


ハードバップを僕の体に染み込ませたブラウンローチ・クインテッドのマーキュリー版。
左上は、アルトはアート・ペッパー、テナーはズート・シムズと決めている僕にとって、ズートとブラウニーのパシフィックジャズの原盤。タイコはなんとシェリーマン。スウェーデンにアトランティックサーモン釣りにいった折、ラップランドの入り口、ウメアの中古レコードショップで見つけた奇跡の一枚。
“ジャズイモータル“何と150スェーデンクローネ。スェーデンは安いと聞いていたけれど2,250エン。日本のディスクユニオンさん、少し高すぎやしませんか。この他にカウント・ベイシー、ディジー・ガレスピー、アート・ペッパーなど20枚を購入。重いそのレコードをかかえたままラップランド釣りへ行く・ハメになった。
つぎはレコードを買う目的でスェーデンに行くか。

今日も朝から雨が降っている。
ログハウスは静かで緑のなかにしっとりと埋もれている。部屋の中は僕好みのデコイや永井文雄のゲームフィッシュの木彫りが飾られてすこぶる気持ちのいい空間になっている。
ヘンリー・ソローではないけれど僕の理想の生活は森の中に住むことだ。ソローのように哲学的でエコロジカルな生活は僕にとっては、無理だけれど、ともかく森のなかに住みたい。
そう思って十年前、このログを建てるときにたくさんの木を植えた。それも花の咲く木を植えた。その木が大きく育って緑の幹のなかに、ログ全体を包み込んでいる。花の咲く木にはもちろんヒメシャラのように実もなるわけだから、たくさんの鳥たちも来る。ウグイスやメジロはもちろんのこと、キジやコジュケイなどもすぐ近くで鳴いてハンターの僕にとってはうれしい限りだ。そしてまたなんと鵺(ぬえ)の正体トラツグミが毎年庭に来る。深い山へ行く途中なのだろう。冬にはキツツキの仲間コゲラも来てコツコツと木に止まって音を立てる。夜にはフクロウ、秋には高い欅の上でムササビが鳴く。生き物好きの僕にはたまらない。
こんな環境なのに、老いた両親の住む大田区久が原の実家にも、中央区日本橋浜町の自宅へもアクアラインを使えば一時間とかからない。

JBL4343からはショパンのセロソナタがゆったりと鳴っていて、弾いているのはジャクリーヌ・デュプレ。雨に日にショパンは当たり前だけれどセロなのがいい。
僕のJBLはモダンジャズ向きにチューンしてあるからヒモ(弦楽器)は基本的にツライのだけれど、なぜかセロだけはまあまあなのだ。でもやっぱりヒモはタンノイだな。
そんななか僕は池澤夏樹の「静かな大地」を読んでいる。
晴釣雨読。なんてね。

その日は夜から雨が降っていた。
車はフィアデルフィアを出発し雨に濡れた路面をインディアナ州エルクハートに向かっている。
車の同乗者はピアニストのリッチー・パウエル。そしてクリフォード・ブラウン。運転しているのはリッチーの妻ナンシー。
夜は明け切らずまだ暗い。車はペンシルバニアターンパイクまで来た。そこで車は堤防に激突する。全員即死。
1956年、6月26日。クリフォード・ブラウン二十五歳。




その日も雨が降っている。
中禅寺湖の六月。
東北道などない時代だから中仙道→日光街道→黒く光る闇の杉並木を抜けて、いろは坂を上り阿世潟に車を止め、急いで上野島を目指す。雨に打たれながら夢中で湖畔の道を歩く。上野島から大日崎、松ヶ崎が僕の朝のコースだからだ。釣れるのはほとんどがブラウン。
大日崎と松ヶ崎のちょうど中間。太い倒木が岸から水中に延びている。そこは必ず出るポイントだった。
「ニッコーにチャマスがいる」
そうチャーリーから聞いたのは、バス釣りを覚えたばかりのときだった。チャマス?それはブラウンのことで日本語の堪能な彼はそう言ってニヤニヤしていたのを思い出す。当時ブラウンは富士の忍野と中禅寺にしかいなかった。
ロッドはサウスベンド7フィート、スピニング。
リールはガルシアミッチェル308。ラインストレーン6ポンド。
プラグはエディホープのホットショット。
速いピッチのストップ&ゴー。いきなりイエローのボディーが視界から消えた。

マイ・フェバリット・ブラウニーである。
釣れないときのブラウニー頼みである。どれだけ世話になったか。

一発で食った。

体をくねらせるたびに体の朱点が美しい。
ブラウンはイワナだ。それを釣るたびに認識する。
岸釣り通いが続いたある日、漁協の監視の男たちと親しくなった。
歳は僕と同世代で、その年、初めて漁協が高校を卒業したばかりの職員を採用したその二人。福田 豊、田中 仁 両君である。
親しくなるにつれ、図々しい僕は漁協の彼らの部屋に泊めてもらうようになった。
だから、しかもさらに船からの釣りも可能になった。田中君の13フィートの船「キングフィッシャー」にエレクトリックモーターをつけ一番いい時間帯に一番いいポイントを効率よく釣った。
釣れないわけがない。僕は大学生で時間は十分にあった。
多分、僕はこの時、一生分の天然のニジマスとブラウンを釣ったのではないだろうか。

こんなことがあった。
夕方五時。
山全体が揺れるように鳴いていた春ゼミの声が急に止んで、夕陽を背負った男体山のシルエットだけがはっきりと見えてくる。空気がどんどん濃密になっていく。時空が変わっていくような気になってくる。そんな錯覚にさえとらわれる。
強い緑の薫りが圧縮されたようにそして風が止った。
音もない。
湖が緊張している。それが判る。
今日の決めていたファイナルスポットへ、エンジンを全開にして向う。
その場所はフランス大使館別荘前。
歌ヶ浜(何といういい名前だろう)から岡甚の桟橋までをトレースするつもりだ。
歌ヶ浜の小砂利の続くゆるやかなカケ上がりからエレクトリックのスイッチを入れる。蚊の飛ぶような軽い音がしてフルーガーM15が回る。
僕も田中君も息を殺して投げ続ける。
ミノーは絶対自信のラパラフローティング11cm銀黒。
フランス大使館前の先端の大きな岩がゴロゴロしているシャローに来た。最高の時間と場所に来た。

デカいのが来る。
予感がしていた。
していたけれど来ない。夕闇が迫ってくる。

ブラウニーとともに嗜む、至福の瞬間。

暗くなると帰りが危険だ。。
気持ちがアセる。
いつもそうだ。そんなこっちの気持ちを見透かすように船べりで食った。
デカい。太い。七十を軽く超えるブラウンである。
ドラッグの出方がスピードについていけない。一気に走られて高鳴りとともにラインが切れた。
ミノーがもっと飛べば、もっと沖で食わせたのに。後悔ばかりグチばかり。
ロッドもリールもラインもまだまだ精度の良くない時代。

まさに釣り師の技量が試されていた。
ラパラよりよく飛び、ローリングのキレをもっと良く・・・。
釣りの必然から、そんな欲求が釣りに行くたびに膨らんで大きくなる。
この思いは川の流れでミノーを使うようになってさらに膨らんだ。よく飛びキレがもっと良くて流から決して飛び出さない。そしてラパラのコピーではなく美しいデザインと塗装。
いまから四十年前。ルアーと言えばスプーンの時代だった。
早くそんなミノーが欲しい。世界のラパラへの挑戦が始まった。
名前はすでに決めてある。
“ブラウニー!!”
クリフォード・ブラウンの愛称である。
日本で初めてのバルサミノーを作るッ。大胆で無謀。無知と非力。
恐れ知らずの困難への挑戦が始まった。




ところでもう少しクリフォード・ブラウンの話しにつきあって下さい。
僕が初めてクリフォード・ブラウンを聴いたのはちょっとミーハーだけれどヘレン・メリル、サラ・ヴォーン、ウィズクリフォード・ブラウンである。カーメン・マクレェを好きな自分としては歌はさほどどうでもよく、美しく、力強く唱うように喋るように吹くトランペットのプレイに一発でノックアウトだった。

僕とクリフォードを引き合わせてくれた2枚。
サラ・ヴォーン、ウィズクリフォードブラウン」、「ヘレン・メリルウィズクリフォードブラウン
サラは歌は上手いけれど(でも声は男みたい)
でもなぁ、歌い手はやはり美人でなければなりませぬ。なぜなら、サラが「ティーチ・ミー・トゥナイト」(今晩オシエテ!!)を歌っているところ(実際歌っている)想像してみて下さい。どうですか?
ダイナ・ワシントン」はおまけ。

ところが当時どこのジャズ喫茶(古いなぁ)でもヘレン・メリルの「ユード・ビー・ソーナイス・・・」とサラの「ララバイ・・・」はリクエストが多くなんだか僕もその曲が好き、歌よりもペットが好きとはなかなか恥ずかしくて言えなかったのを覚えている。つまり、ジャズ好きなら誰でもが知っているポピュラーでスタンダードな名曲だった。
それにしても、アメリカデッカの頃のカーメン・マクレェはいいなぁ。
「アフターグロウ」などのラブバラードは絶品である。

クリフォード・ブラウンについて敬愛するジャズ評論家、故油井 正一さんはこう書いている。
なぜトランペットなのか。
「クリフォードに、君の唇はラッパにむいているから、ラッパをやりたまえ、とすすめたのは私だ」とサム・ウィンディングは誇らしげに言った。サム・ウィンディングは戦争中、デラウエア州ウィルミントンの高校で音楽教師をしていてクリフォード・ブラウンはその教え子のひとりだった。そこでクリフォードは十三歳のときに父親から新品のトランペットを買ってもらい習得しはじめる。
サム・ウェンディングはジャズ史上に残るバンドリーダーである。
そのブラウニーが十九歳のときディジー・ガレスピーのビッグバンドが巡演してきた。ある夜、トランペットセクションのリトル・ベティー・ハリスが遅参した。ガレスピーはブラウニーをステージの上によび上げて吹かせた。このころから彼の名声は中央に知れ渡っていく。
その後ブラウニーはメリーランド州の州立カレッジへ進み、このカレッジの在学中、彼はプロのミュージシャンたちと共演することになる。J・J・ジョンソン、アニー・ヘイリー、ファッツ・ナバロ、そしてマックス・ローチである。

1950年はじめ、フィアデルフィアに演奏旅行するアート・ブレイキーにチャーリー・パーカーは言った。
「トランペット吹きは連れて行くな。クリフォード・ブラウンというすばらしいのがいる。」
このチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピー。この二人の巨人について「幸せの黄色いハンカチ」の原作者、ピート・ハミルが「スーパーサックス&LAヴォイセズ」の裏書(ライナーノーツ)きでこんなことを書いている。いい文章なので少し長くなるが引用してみたい。
・・・・・太古の人間は、音の美しさを一羽の小鳥(バード)のさえずりから学び取った。と私は考える。スーパーサックスのメンバーはもとより、戦後数年にわたって活躍した一流のミュージシャンたちが手本にしたのも、一羽の小鳥(バード)だった。この鳥は、バードの愛称で知られるチャールス・クリストファー・パーカーJr. 。“モンローズ・アップタウン・ハウス”に出演の機会を得て、カンサス・シティーからニューヨークへ進出。1941年にディジー・ガレスピーにめぐり合う。そして1945年にはディジーとともにジャズ界の新しいムーブメント、ビバップの創始者として名声をかちとっていった。古いスタイルを借りうけ、それを新しいものへと創造したバードとディズは、ジャズ界のブラックとピカソだった。単なるエンターティナーになることを拒否し、音楽に対してかたくなな姿勢を貫いたビバップ系のミュージシャンたちは、誤解を受け、無視され、マスコミからは笑い者同然の扱いを受けていた。


「スーパーサックス&LAヴォイセズ」
僕はジャズコーラスが好きだ。
「ダブル・シックス・オブ・パリス」「ランバート・ヘンドリックス&ロス」「フォー・フレッシュメン」「シンガーズ・アンリミテッド」「マンハッタン・トランスファー」
このアルバムもその正統を継いでいる。都会的でジャジーな1枚だ。ピート・ハミルの裏書きもいい。
そして何より
女性リードヴォーカルは、スー・レイニーちゃん。知っている人は知っている。知らない人は誰も知らない。

彼らの創り出した音楽は、そんな逆境にも耐え抜き、さらにたくましく成長していった。ジャズこそ、アメリカのクラシック音楽だ。
今では、誰もが認めるこの事実を、はじめて世に主張したのがバードとディズだ。安酒場(サルーン)で演奏しなくてもよかったという点では、モーツアルトはチャーリー・パーカーよりかなり恵まれた環境にあった。だが、麻薬の売人、盗っ人、娼婦などがたむろするギャング経営のダンスホールに花開いたジャズは、しぶとく生き残ったばかりか、フォークナー流にいえば、はびこる一方という状況だった。
かつてはアメリカ音楽のあだ花とされたものが、今やアメリカの古典音楽として市民権を得ている。ロック、ポップの人気アーティストで、この音楽の影響を受けなかった者はまずいない。
深夜ニューヨークのあるパーティーでローリング・ストーンズのミック・ジャガーと話しをする機会があった。いちばん好きなミュージシャンの名前を聞くと、ミックは笑いながらこう答えてくれた。
「チャーリー・パーカーさ。ほかに誰がいる?」

僕はロックやポップスはあまり聴かないけれど、ピート・ハミルのこの文章を読むとなるほどと思う。それにしてもこのレコードのトランペット、コンテ・カンドーリは笑ってしまうくらいブラウニーそのものだ。


ジャズミュージシャン=麻薬。
1950年代、ほとんどジャズミュージシャンは麻薬に身を染めた。
ソニー・ロリンズも例外ではなく、しかしロリンズは言う。
「クリフォード・ブラウンはクリーン(麻薬をやらない)な生活を続けていても立派なミュージシャンでいられることを身を以って示してくれた。」
ロリンズはそう言うけれど。
じつはクリフォード・ブラウンは死ぬ六年前にやはり自分の運転する自動車事故で瀕死の重傷を負っている。一時は絶望とも言われた。
この事故は単なる偶然なのか。麻薬のせいなのか。酒酔いなのか。当時の自動車の精度なのか。僕には分からない。
それはともかく、ブラウニーの死がジャズ界に与えたショックは、はかり知れない。
アート・ファーマーは言う。
「クリフォード・ブラウンが死んだ。ということを聞いた我々は大きなショックを受け、音が合わなくなり、とうとうレコーディングを中止して家に帰った。」
ヘレン・メリルは言う。
「あの日はギル・エバンスとのセッションで、スタジオに集められたのはビッグバンド編成だけに、レコード会社の負担も大きかったのですが、とてもレコーディングする事が出来なくなってしまって、それで結局あの日は解散してしまった。」
さらに、
ブラウニーの死がマックス・ローチに与えた影響は大きかった。
「あれ以後、マックスは人が変わったようになった。」
と、ミュージシャンたちは囁きあった。

クリフォード・ブラウンは不世出の天才トランペッターであった。
それが証拠に以後ほとんどのラッパ吹きが、ブッカー・リトルがサド・ジョーンズがリー・モーガンがフレディー・ハバードや錚錚たる人たちがブラウニーの後に従った。いまでも彼を抜け出る人を僕は知らない。
もし、ブラウニーが生きていればマイルス・デイビスはどうなっていたのか。もしかすると居場所がなくてもっと早くロックのほうへ行っていたかもしれない。




バグス・オパス
“アイ・リメンバー・クリフォード“は色々なプレイヤーが演奏する名曲である。中でもファーマー=ゴルソンジャステットは有名だ。
でも僕はこの1枚をレコメンドする。ベストだと思う。

中禅寺湖はやはり、緑の底に沈んでいる。
四十年前もいまも春ゼミが降るように鳴いている。
何も変わらない。

ハイランドレイクだけが持つ霊的とも言える神秘性。それは何なのか。それが神の山といわれる所以なのか。
中禅寺湖。と聞いただけで僕は緊張する。
それだけこの湖に通いこんだせいだけなのか。
夢中で一緒に釣りをした田中 仁も去年死んだ。脳溢血、五十九歳だった。
なんだかとても深いものがこみ上げてくる。それはいったい何なのか。たくさんの思い出だけではない。それは何なのか。

アイ・リメンバー・クリフォードのメロディーが頭の中で鳴っている。
それがオルゴールのように僕の頭の中でくり返し鳴っている。
「クリフォードの思い出・・・。」
ベニー・ゴルソン作曲のこの名バラードは、そのメロディーの美しさの分だけ悲しみも深い。
いかにブラウニーが皆から愛されていたのかが分かる。
あのマイルス・デイビスがブラウニーをアート・ファーマーに紹介するときに、「すばらしい新人だ。人間的にもいい奴だ」そしてアート・ファーマーは言う。「だから私も期待していたのだが、ききしにまさるいい男だった。正直にいって彼の腕には嫉妬を感じた。だが人間的にはおそろしくよく出来た男だったのですぐ仲良くなった。」
才能のあるいい人間はなぜ早く逝くのか。なぜなのだ。
「アイ・リメンバー・クリフォード」
ミルト・ジャクソン(V:b)、アート・ファーマー(Tp)、ベニー・ゴルソン(Ts)、トミー・フラナガン(P)、ポール・チェンバース(B)、コニー・ケイ(Ds)アルバムタイトル「バグス・オパス」しみじみと胸に迫る絶品の演奏である。

僕はこの天才トランペッターの愛称を自分のミノーの名前につけることのできた、幸せと名誉を本当に誇りに思う。



プラッガーたちへ。
大人の少年達へ。
団塊たちへ。


則 弘祐





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