いつ頃できたか判らないくらい古いその池は、夏の終わりの陽を受けて、けだるさの底に眠っている。
空は青く、そして高くなってきていて、池を囲む杉の木立も、心なしか輪郭がはっきりしてきていて、池を一面に覆うウィードベットやリリーパッドも色が変わり始めている。
いま僕はこの池で、始めてのことをしようとしていた。というのも、この池は僕にとってヘラ釣りの池であり、同時にライギョのフロッグゲームのフィールドでもあったからだ。それ以外の釣りを僕はこの池でやったことがない。池とはいっても浅く大きな沼。湖と呼ぶには小さく、でも地元の案内には湖と表示されている。
この池の堰堤の左端に持ち主不明の朽ちかけた木の小舟があって、僕はだから有難くその小舟を利用させてもらっていた。まず、この池のヘラ釣りは儀式のように小舟に溜まった水汲みから釣りがスタートする。そして用心深く持参したパドルで浸水する水を汲み出しながら目的のポイントに向かう。
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僕が釣りに夢中になり始めた頃、釣りの世界にはそれぞれの釣りで有名な人がたくさんいた。 そしてその方達は、釣りだけではなく、書く文章や釣り姿から醸し出される何とも言えぬ風格があった。 たとえば、淡水小物では、タナゴの安食 梅吉。安芸 楽竿坊。渓流では、高崎 武雄。桑原 玄辰。フライやルアーでは、米地 南領。鈴木 魚心。
とくに安芸さんは僕の住む隣町に小物専門の釣り堀をやっておられ、中学生の僕はよく指導を受けた。そして子供ながら釣りを誉められたのを、いまでもはっきりと思い出す。
さて、ヘラ鮒は増田 逸魚さんである。 その時代の先達は、僕の親父がそうであるようにみなさん、明治か大正初期の生まれで、釣りに対する気骨がいまの釣り人とは違っていたような気がする。生き様そのものが釣りで、釣りと人生が真剣勝負をしていた。釣りのための貧乏を恐れなかった。
増田 逸魚さんとは、昔、上野稲荷町にあった「東作本店」で知己を得た。まだ大学生のときである。静かだが存在感のある人だった。増田さんは僕にヘラ鮒釣りで決定的な影響を与えた師匠(勝手にそう思っている)である。そして増田さんはルアーやフライに造詣が深く当時もう、ブラックバスのことを知っていた。1915年生まれというから、生きていらっしゃれば九十四歳。僕の親父と同年である。 僕は増田さんから、とくにヘラ竿のことを教えられた。そしてヘラ竿師は職人ではなく作家である・・・。そうよく言っていた。 特に銘竿「孤舟」の羽田旭匠についていつも熱く語っていた。ところが当時でも「孤舟」は尺三万円以上。十尺で三十万。一日のバイト代650円の僕にとって、とても買える金額ではなかった。
僕にヘラ鮒釣りの面白さを決定づけた増田さんの名著「ヘラブナ釣り百科」。そして彼から直接いただいた「ダイナミックヘラウキ」。それから自作した直伝、増田式「藻刈器」。 | |
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沖に向かって最初の岬を回ったワンドが僕の好きな釣り場だった。
そこは水面にパラパラと小さな水蓮のようなヒツジグサが顔を出していて、ところがその水面下30cmはエビ藻やカミソリ藻の濃密なウィードベットである。普通では釣りにならない。
ところが僕には秘密兵器があった。
敬愛するヘラ釣り師、増田逸魚さん直伝の藻刈器である。当時市販の藻刈器もあったけれどおおきくて、それを使うとヘラを驚かしてしまい半日以上釣りにならない。ところが増田式は、自転車のスポークをT字型に曲げてあってT字のTの部分を目立てヤスリで刃をつけて自作した。大きさは10cmくらい。これなら仕掛けに直接つけて静かに藻を一本一本切り抜くことができた。
この作業を30分も続けると2メートルほどの藻穴を作ることができる。水深も1メートル以上確保できて、普通藻面を釣る場合、早朝と夕方そして夜しか釣りができないのにこのような藻穴を作るとヘラは安心して藻の中から出てきて日中でも釣りになった。完全に僕の作戦勝ちである。
釣れるヘラ鮒は六寸~八寸止まり。それ以上は取れない。竹竿しか使わない僕はハリス0.6号以上は使えないからだ。それ以上だと竿が持たない。竿が可哀相だ。判っているからくやしいけれど納得していた。
この池では静かに釣りをしていると、いろいろな動物に出会えた。ウサギやイタチ。キジやコジュケイ。まるで洗面器のように大きな亀が浮いてきて僕を見てあわてて潜っていったりした。ただ、大きなアオダイショウが泳いできて船に上ろうとしたのにはまいった。
ライギョ釣りはこうだった。
ロッドはブラウニン。(ブローニングをチャーリーはこう呼んだ)リールは3gのスピナーも投げたアムバサダー6000C。ラインはブレイデットダクロン30Lb。ルアーはビル=プラマーのウィードガードフロッグ。これはアメリカの通販から取り寄せた。このフロッグはモデルチェンジして皆も知っているハリソンスーパーフロッグと言われるようになる。
こんなことがあった。
午前中は岸からの釣りで20バイト、5キャッチ。そんなペースで釣っていた。サイズは60cm~80cm。この池では普通の釣りである。昼からは例の朽ちかかった小舟を使って、僕のヘラ釣りのワンドに向かう。じつは、このワンドの奥にまた小さなワンドがあって、前回そこでいいサイズを取っていた。
キャストする。
と、「モコッ」
ブッシュの奥から三角形の頭が現れた。
食用ガエル。ブルフロッグである。
白状すると、僕はこのウシガエルが好きで、いや釣るのがではなく食べるのが好きで、それはまたチャーリーから教わった。彼の故郷テキサスでは皆食べるのだという。鶏肉をもっと淡泊にした白身で、姿とは反対の上品な味だ。
フロッグにフロッグが等間隔でついてくる。
その時だった。
目の前で1メートルを軽く超えるライギョがあの大きな食用ガエルを全身を出して一発で喰ったのだった。
圧倒的だった。ただ見ているだけだった。魚食魚の凄さをただ見ているだけだった。
「何てこった・・・。」
僕は何度も口の中でモゴモゴとこの言葉をくり返していた。
そんな事を思い出しながら。
じつは僕はこの池にアメリカの釣り雑誌に出てくる、アラバマやジョージアにあるファームポンド、農業用の溜池。ランチタンク、牧場の溜池。そんなバスの楽園。パラダイスを夢想していた。その池はみな、ウィードベッドやリリーパッドに覆われていてそれは牧歌的で美しい。それがバス釣りの原点に思われた。そんなバスの楽園、リリーパッドポンドでのバス釣り、そこでの釣りを僕は夢見ていた。
前回、数ヶ月前のヘラ釣りの帰りだった。
道具を片づけていて、何気なく堰堤のシャローを見ていて、一瞬目を疑った。群れている小魚がバスに見えたのだ。
まさか。と思った。
でも目をこらしてよく見る。気のせいか・・・。
ところが体側のストライプがそれを証明していた。
「バスだ!!」
何も悪いことをしていないのにキョロキョロと囲りを見回していた。
「バスがこの池にいる!!」それでもまだ半信半疑だった。
だから今回はバスを釣るつもりでこの池に来ていた。
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〈NORRIS' CAST〉 釣りに行くときの一枚のCD。 No.1
●ウェス モンゴメリー 「 ア・ディ・インザ・ライフ A&M0816 」 人は僕たちの世代をさして「ビートルズエイジ」だと言う。否定はしないけれど少なくともぼくはちがうし、と言うよりあまりビートルズの演奏が好きではない。僕が学生の頃。ベトナム戦争があった。日米安保条約のもと、ベトナムを爆撃するジェット燃料がJR、当時の国鉄、新宿駅を日常的に通っていた。僕たちはそれが許せなかった。ある夜、機動隊と衝突した。いまも残る額の傷はそのとき機動隊に殴られたものだ。ビートルズは「ラブ&ピース」だと歌う。反戦フォークもそうだった。 歌でベトナムの人たちが救われるのか・・・・。
このCDは偉大なプロデューサー、ノーマン・グランツがヴァーブレコードを去った後、「ゲッツ・ジョルベルト」などボサノバのブームを作った名プロデューサー,クリード・ティラーがティファナブラスのあのハーブ・アルパートが興したレーベルA&Mへ移籍後、初の作品である。この頃ロックに押されてジャズは衰退していた。ジャズプレイヤーも同じであった。
このCDはストリングスをバックに錚々たるリズムセクション、(P)ハービー・ハンコック(B)ロン・カーター(D)グラディ・テイト。そしてオクターブ奏法で知られるウェス・モンゴメリー(G)のイージーリスニングモノである。とくにアレンジャーのドン・セベスキーは恥ずかしいくらいオーバーなアレンジをしていて、それもプロデューサーの計算づくなのだろう。この作品のヒットでジャズはどんどんイージーリスニング化していくことになる。
モダンジャズのアナーキストなジャズオヤジたちは、ジャズの堕落だと言うけれど、僕はこんなジャズもあっていいのではと思っている。釣りの行き帰り、あるいは車中泊のときなど、ハードバップは重すぎる。釣行のときのB・G・Mとしていいと思うよ。
それにしてもこの曲、レノン/マッカトニーである。「ヒア・カムズ・ザ・サン」などもそうだけれどビートルズの作詞作曲のセンスの良さには舌を巻く。
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オンボロのセドリックスーパー6からこの池でははじめてのバスタックルを降ろす。
フェンイックFC65。これはいつも箱根で使うロッド。アムバサダー5000Cと6000。それにストレーン16Lb。ダイレクトに当たりを感じるのと魚を掛けてガイドを通ときの音が嫌いで岸づり以外にブレイデットラインを使うのには抵抗があった。バスはモノフィラで釣りたい。これはバスに対する礼儀のようにも思えた。だから40年たったいまでもよほどのヘビーカバーでない限り、バスにはモノフィラを使っている。
いつものように舟に溜まった水を汲み出し、いつものパドルでいつものヘラ釣りポイントへ向かう。
「まさかバスは釣れないだろう」
「でもあの子バスの親がいるはずだ」
自問自答が始まる。
ポイントについて第一投だった。
「ボフッ!!」
ライギョとはまるで違うストライク。そして音。自問自答は杞憂だった。いきなりだった。オリーブバックのバスが、イエローベリーのバスが、赤い目をしたバスが杉の木立を目指して青い空を突き刺すように跳んだ。アゴを張りエラを開いて跳んだ。リリーパッドで釣った始めてのバス達が跳んだ。
そのパワー。力。美しさ。明らかにオープンウォーターのバストはケタ違いに違っていた。とくにその美しさは僕は一生忘れない。
そしてそれからは、息もできないくらいの興奮の連続がくり返された。
トップウォーターのバス釣りは禁欲的な釣りである。
釣りの舞台は水面だけに限られるし、プラグも色や形は自然のエサから遠いデザインと、自分で決める。
さらにリリーパッドのバスゲームとなるとより自虐的な釣りを要求される。
ウィードやリリーパッドのせいでフックはシングルかダブルのウィードガード付きかスナッグレス機能。魚がバイトしたときに吐き出さない、まぁ自然の噛み心地というかナチュラルフィールであったとしても、ストライクがあっても乗らない。セットフックしない。
バスはその多くがプラグを上から、のし掛かるように襲う。真上の場合さえある。トレブルフックのようにボディーからはみ出していないシングルやダブルのフックはボディ自体のディフェンダー効果とあいまってセットフックしづらい。
さてどうするか?
でも、ところがウィードベッドのバス釣りやライギョ釣りにハマるのはこの、自虐的な面白さがあるからなのだ。アワセのタイミングやフック改良やロッドのアクション。それぞれに工夫をこらすようになる。困難への挑戦。これが、これこそがゲームフィッシングの真骨頂である。と僕は考えている。
その日、僕は人生を変えてしまうような体験をすることになった。
藻の開いているポケット。切り立った岸辺のオープンスポット。そんな場所から、ライギョ混じりでグッドコンディションのバスがためらわずに出てきた。平均40cmと言ったところか。
クライマックスはこうだった。
この池のいちばん奥のワンドでのことだ。
そこは広いシャローで向かって左側の岸辺に斜めに水中の没している一本の倒木がある。いかにものポイントであった。迷わず僕はその根元に向かってビルプラマーを投げた。高くゆるやかな弾道のロングキャストである。
ゆっくりとフロッグが飛んでゆく。
もうすっかり体が覚えてしまっている右手の親指が無意識にサミングを始める。
ゆっくりとフロッグが飛んでゆく。
そのスローモーションのように飛んでいたフロッグが水面の落ちる少し前だった。
バスが全身を出して踊り上った。水面を尾で蹴るようにして空中でフロッグを
咥え込んだ。
「エッ、ウソだろっ!!」
A DAY IN THE LIFE
僕の一生を変えた一日のいち日。
生きていて良かった一日のいち日。
37年前のいち日。
はじめてバスをリリーパッドで釣ったいち日。
以下次号
則 弘祐