予感がした、バスのパラダイスは本当だった。
いや、それ以上だった。
リリーパッドの水面を割ってストライクするバスの姿が頭のなかをグルグルと回って、仕事が手につかない。気が入らない。
そんなこともあってなのだろうか、僕はすぐにT・R・G・C(東京ロッド&ガンクラブ)の仲間たちにはこの池での出来事を連絡しないでいた。
なぜだろう。
いまでもその気持ちが自分でもよく分からない。ただ言えることは釣りが、ブラックバスという魚の釣りが、いやそうではない。それは、いままで不明瞭だった釣りの面白さの本質に打ちのめされていて、気持ちがどう言うか真空のようになっていた。
それは、何かが僕の心の深いところから誘っている。染み込むように呼んでいる。
いったい何なのか。体が震えるような感動の正体はいったい何なのか・・・。
当時、バスは日本には芦ノ湖、相模湖、津久井湖、震生湖しかいなかった。知識も技術もオープンウォーターでのストラクチャーを狙う釣り方しか僕たちは知らない。
T・R・G・Cのメンバーたちに電話をした。皆、半信半疑だった。僕は強引に彼らを誘った。
「ライギョ釣りと同じだよ」
僕はそう言って誘った。
そしてメンバーはこの池でバス釣りのパラダイスの扉を開けることになる。
それからが大変だった。
僕たちは毎週末この池に通うようになった。
興奮。豊穣。快楽。失敗。反省。失望。
天国の扉を開いた我々を待っていたのは、自分たちの無知と未熟だった。
無理もない。当時の日本ではバス釣りの認知どころかリリーパッドの釣りなど、タックルもすべてが原始時代であったからだ。
だからウィードガードプラグなどすべてアメリカから取り寄せることになり、ことに郵便(ポステイジ)では制限があって駄目なロッドは貨物(カーゴ)で送ってもらった。じつはこれが大変だったのだ。
でも、夢中になっている僕たちにはそれはかえって楽しみでもあった。苦労の末に手に入れた物にはひとしおのものがあるものだ。
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| ( カタログ販売から取り寄せたタックル ) いちばん使用頻度のあったハリソンのバスフロッグ。初期モデルはスポンジ製。ザウルスのヒックリージョーのヒントにもなった。後年、スーパーフロッグと名前を... | スナッグプルーフはヘビーカバーに多用した。ただポケットではすぐ沈んでしまい使いづらかった。 | ウェーバー。スピニングポッパー&マウス | ガルシアフロッグ&バークフロッグ | 千葉の兄弟が多用したスプーン。トビーウィードレス&ジョンソンシルバーミノーウィードレス。 | スピナーベイトの原点。シャノンツインスピン | カタログではすごく釣れそうに見えたから取り寄せたけれど使わなかったウィードレスワーム。反省。 | こんな馬鹿なものまで取り寄せた。失笑のウィードレストレブルガード。 | これが噂の“ヤマシュウガエル”です。 | そして究極の反省グッズ。何の役にも立たなかった、エレクトリックモーター用ウィードガード。 |
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通信販売は手に取ってみるまではわからない。
期待したものが予想外だった、なんてことは結構あった。
我々、T・R・G・Cメンバーにはいろいろな人がいた。僕の放送番組制作に関連した広告関係の先輩たち。僕の釣り仲間。狩猟の仲間。みんな大人になりきれない頑固者ばかりだ。
「ウィードガードフロッグ?」
と。ひとりの一刻者が言う。
「プラグと言うのは自然の餌から遠いデザインと色ではなかったか。我々のポリシーとは違うッ!」
ハードなリリーパッド用のロッドが嫌いでリリーパッドのポケットだけをやわらかい、フェンウィックのFC38でヘドンのザラゴッサを大声で笑いながら楽しんでいた(ミヤさんあなたです)偏屈者。そして山田周治さんはまだ髪は真黒で、ワインの栓を使ったウィードガードフロッグ。あの“ヤマシュウガエル”で一人悦に入っていた。
そして僕たちは週末になると集まってよくキャンプをした。コールマンストーブ、ランタン、ウッズのキャンバステント。そしてそこにはこの池のためにアメリカから取った、オールドタウンのカヌーもあった。多分、日本で初めてのことではないかと思う。
皆、若かった。千葉で食堂を経営する兄弟に頼んでマトン(ラムではない動物園のライオンのエサ)をひとり1kg以上を食べた。肉は貴重だった時代だから安価なマトンのBBQは何よりだった。体からマトンの臭いがするまで僕たちは飽食した。
キャンプの場所はこの池のいちばん奥。
そこへ行くのにはお寺の横を通り、いくつかの集落を過ぎ、そして昼も暗い切り通しを貫けるといきなり墓地に行きつく。その墓地の裏のせまい空地がキャンプサイトで、その墓地はあきらかに土葬と知れる日蔭の、絵に描いたようなうす気味の悪い場所だった。墓のなかには盛土のがあったり、盛土の土万頭には屋根がかけてある。おまけに盆提灯は雨で壊れて口が開いたようになっていた。怖さの演出効果は満点だ。
でもリリーパッドのバス釣りに入れ込んでいる僕たちは何でもない、フリをしていた。正直、コワくないワケがない。誰もそのことを口にしない。コワイけれどバス釣りのほうがいい。皆それで納得していたのではないか。それでも夜は星が美しかった。夏の夜には蛍が体にぶつかるくらいたくさん飛んだ。
そんななかで、よりによって僕が出会うことになる。
何と?
決まってるじゃないですか・・・。
その日、6月のムシ暑い日だった。
僕はひとりでウィークデーに来ていた。
もうその頃になると、この池のポイントを熟知するようになっていて、狙い込んだポイントだけを集中して攻めるようになっていた。
それはプラグのアクション、間、リトリーブのスピード。ロッドアクション。色。サイズ。音。
つまり、それはトップウォータープラッギングのすべてを自分自身で納得し身につけることだった。トライ&エラーの連続で、この経験で僕たちはこの池に来るたびに成長していったように思う。釣れた、のではなく釣った!!自分のシュミレーション通りに釣った満足。何という贅沢。何という充実。
この日、朝一番で入ったのは例の倒木のポイントだった。このポイントは皆が攻めていてそう簡単には釣れなくなっていた。
最初のワンキャスト、その一投がすべてだった。
サイドスローで倒木の奥にソフトにプレゼンテーションできた。しかも水際、岸の上にキャストできた。
長いストップの後、ゆっくりと静かに滑るようにハリソンを水面に引き入れた。
そして足だけを震わせる。なるべくボディーを動かさずに足だけをヒクヒク、ピリピリと動かす。そうあって欲しいイメージで時間をかけて動かす。これもこの池で習得したテクニックだ。
と、
倒木の下の水面が揺れ、動いたような気がした。ハリソンまで1メートルはある。
瞬間、ハリソンが水面からかき消えた。音もなく吸い込むように波紋を残して水中に消えた。
三つ数えて僕は大きくあわせた。
「ゴクッ。」竿が止まる。
ゆっくりとひとりだけの時間が過ぎていく。
カヌーはウィードベッドの釣りには理想的だ。水深が30センチもあれば浮くし、移動も気持ち良いくらい音もなく滑るように進む。パドリングも慣れれば音を立てない。このオールドタウンの17フィートはABS製でノンキールだ。ノンキールは流れには操作性はいいのだけれど、釣りとなるとちょっとしたことでバウが振れて釣りづらい。ことにひとりではそうで、もうひとつのウッド製はキールがあってそれはない。釣りをするならキールありだ。そんなこともこの池で習う。
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| ( NORRIS CAST )釣りも、キャンプもいつも僕と一緒だった。 「ディレクターズチェア」 はっきりと覚えていないのだけれど、この椅子を使い始めたのはこの池のキャンプからだったか中禅寺湖からだったか。
今のようにアウトドアがブームではなかった昔、キャンプ用のイスなどなかった。その椅子を僕はトップウォーターのバス、中禅寺湖のトラウト釣りに使い始めた。それはたとえばバス釣りの場合相模湖にしろ津久井湖にしろその舟はヘラ鮒用で、舟の中心に座るバス釣りの場合、具合が悪かった。 安定の良い、キャストの目線が水平。アクションもキャストもこの椅子に座った高さが丁度よかった。プラグのアクションを目で見てするトップウォーターにはマストな道具のひとつだった。そのうちボートかカヌーになりジョンボートになると、使われなくなった。 ただ古いプラッガーは覚えていると思うけれど、このイスのスタイルがスタンダードになってた時期があったよね。このディレクターズチェア。だから40年以上前、もう2台しか残っていない記念の1台。 アメリカ製。 |
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充実の時間が過ぎて、暗くなる前に釣りを終えた。
この池では暗くなると怖いことが起きた。夕方のベストタイムはだからひとりではしなかった。どんなことが起こるのか。
池の真中で進行方向と反対にカヌーが進む。誰もいないはずの岸辺でひとの声がする。UFOがしょっちゅう出る。
仲間がいるときは心強いけれど、ひとりのときはどうもね、なのである。
ひとりでカヌーを積み終えた。墓地を出て、切り通しにさしかかったときだった。前方の崖側の空中に火が燃えていた。
ポッと点いたと思ったらすぐに消える。高く低く、オレンジに青にまた点いては消えた。
「人魂だ。」
と、思った。
なぜだか不思議と怖くはなかった。
僕はそれを車を止めて見ていた。
このバスのパラダイスは当然のことのように人に知られることになった。そしてその数は週末ごとに増えていった。
なかにはストリンガーに吊るして殺してしまう人も現れた。出会う釣り人にリリースをお願いしても限界があった。
そこで仲間と話をし、公にこの池のことを発表することとした。発表の条件として、釣り方やポイント説明ではなく、この池がいかにバスに適しているか、バスの実態や生態。その釣の素晴らしさ、そしてバスの保護。
そしてそのことを“フィッシング”誌、編集長の吉本万里さんにお願いし快諾を得た。そんなことは日本の釣り雑誌では初めてだった。
そのとき僕たちは、バスは日本の国民的な魚になる、強くそう信じていた。バスに心酔していた。
四十年以上になっても僕はいまでもそう思っている。
そしてこの池は、伝説のリリーパッドバスポンドとなっていくことになるのだ。
それにしても、突き上げるように、体を震わせるように湧いたあの感情は何だったのか、心の奥底から誘っていたのは何だったのだろうか。
それはたぶん、もしかすると自分のなかに眠っていた本能。釣りや狩猟の本能なのか。そればブラックバスという温水性の魚食魚をフィルターとして明確に目ざめたのかもしれない。プラグにストライクする音。ジャンプする姿。その圧倒的な説得力。それが目ざめのスイッチになったのか。
そしてそれこそが、バスをバスらしく釣りたい。
だから僕のなかでその思いはトップウォータープラッギングという釣り方で帰結していったのだと思う。
僕のこの池での決定的な経験が、ますます、ゲームフィッシュのプラグでの釣り方を求道し、結果、僕の人生を決めていくことになる。
A DAY IN THE LIFE
僕の人生を決めた一日のいち日。
生涯バスとつき合うことになった一日のいち日。
37年前のいち日。
雄蛇ヶ池のいち日。
以下次号
則 弘祐