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ザウルス・スーパーバイザー
則 弘祐
ESSAY: Hirosuke Nori


ESSAY TITLE



最近、昔の新潟県銀山湖をしきりに思い出す。芦ノ湖。中禅寺湖。雄蛇ヶ池。そして銀山湖。そうあの大イワナ伝説の銀山湖。僕のプラッギングライフで忘れることのできない湖である。

銀山湖と言えば大イワナと並んでもう一方の主役、作家の開高 健さんがいる。亡くなって20年以上過つのだけれど僕にとっては彼の存在は重い。釣り師としての僕に決定的に影響を与えた人だからだ。有名人で大作家。でも僕は彼のことをちゃんと書いたことがない。銀山湖のこともちゃんと書いたことがない。なぜだろうか?相手が大き過ぎるせいなのか?少し苦手だったせいなのか?そんな折、生誕80年「開高 健の世界」展。駅のポスターの開高さんが僕を睨んでいた。もちろん行って来た。



その展示会場で「フィッシュオン!」や「オーパ」「オーパ、オーパ」を見た。何度も見ているはずなのに、またひとしおのものがある。とくに「週刊朝日」に連載された「フィッシュオン」には銀山湖が登場する。大学生の僕はその場にいた。だから当時の自分が生々しく蘇がえる。シーンのカットが、その場の雰囲気が、開高さんのカン高い関西弁が、ライブで聞えてくる。「ノリくん」彼が呼んでいる。その声が聞こえてくる・・・・・。




( 銀山湖で多用した大イワナキラーのプラグたち )

銀山湖で多用した大イワナキラーのプラグたち。キミはいくつ知っていますか?
スプーン全盛の当時、プラグしか使わない僕は充分に異端だった。
でもプラグには大物が食った。
プラグにはビッグワンが食う。それが、その事実がバスでもトラウトでも、プラッガーとしての僕を支えていく・・・・・。

僕にとって始めての銀山湖へは上越線で行った。銀山湖の大イワナの話は、あのスプーンの大家、大先輩の常見 忠さんが雑誌に発表し、銀座「つるや釣具店」でも話題になっていた。それに刺激されて大イワナ釣行を実行したのだった。

小出駅からバスで銀山平。銀山平から定期船で只見。そして只見川本流の流れ込みにテントを張った。連れは幼稚園から大学まで一緒の後に税理士になる長谷川 康正。
着くとすぐに流れ込みを釣る。
夕方にアブ社のスモールフライにイワナが食った。でも僕がヘタなのとフックの小さいのもあってバレた。これが初の銀山湖での最初で最後のイワナになった。

暗くなってから雨が降り始めた。激しい雨がキャンバス地のテントを叩く。翌日も強い雨が一日中振り続いた。その日の夜中、増水した湖の水がテントの際まで迫ってきた。外に出るとテントが湖水に浮いているように見えた。漆黒の闇のなか、懐中電灯の先に見えてきたのは遭難の二文字だった。
すごいスピードで水が増えている。高い場所に張ったつもりだったテン場は大雨に完全に無視された形になった。

本能が生命の危険を知らせている。反射的に釣り具と身の回りの物だけ持ってテントを捨ててはるか上の林道に這い上がるように逃げた。林道から下を見るとスポットライトの先に濁流となった只見川本流にテントが流されていくのが見えた。まさに間一髪である。
僕たちは林道で雨に打たれて、震える膝をかかえながら夜の明けるのを待った。寒さに耐えられなくなってきた。その時、まさに奇跡のように林道の向うから電灯の明かりが見えてきた。心配した只見の集落の人たちが助けに来てくれたのだった。
釣りで初めての遭難。それが銀山湖だった。






それなのに、こんな怖い思いをしたのに釣り師とは懲りない人種なのですね。ますます銀山湖への想いが強くなる。今度は年上の友人と車で出掛けた。車は友人のスズキ・スズライト(ふるいなぁ)360ccの軽である。

関越自動車道などない時代だから17号線をひたすら北上する。小出から未舗装の指折峠をやっとの思いで越え、北の岐川に掛る丸太作りの石抱橋を渡る。やっと着いた。見回すと未明の銀山平はたくさんの野ウサギが飛び跳ねる別天地、まさに秘境だった。
前回のキャンプで懲りた僕は出来て間もない新しい村杉小屋に宿を取った。もちろんエンジン付きの舟もある。でも電気は自家発電、料理は山菜や魚肉ハム、塩クジラ、これでもし大イワナが釣れなかったら・・・・・。

もし、大イワナが釣れなかったら、と言う心配は初日から消し飛んだ。まさにこの村杉小屋から僕の大イワナストーリーが始まることになる。たくさんの沢の流れ込み。袖沢の放水口。虚空蔵や水通しの良い岬の立木周りから60センチを超える大イワナがミノーに襲いかかった。なかでも黒又ダムの放水口での釣りは圧巻だった。その釣りとはこうだ。

黒又ダムの放水口とはその名の通り、只見ダムから放水される水の黒又ダムへの流れ込みである。だからその場所は只見ダム直下にあって、車両通行止めの道をその場所まで歩いて下っていかなければならない。一時間と言ったところだろうか。
放水口に着くと、放水が始まるのを待つ。放水の時間はあらかじめ調べてあって、だからはやる気持を抑えながら待つ。
すると、放水口の奥から音がしてくる。その音がだんだん大音響になって近づいてくる。放水口から白い霧が出てきた。



「ゴン!ゴン!ゴーッ!!」
放水が始った。今まで溜っているだけだった流れ込みが瞬時に本流の強い流れに変わった。その流れが渦を作って流れ下っていく。
するとどうだろう。その流れの中心の脇に大きなライズが起るようになった。
放水される流れに乗って上のダムから大量の死んだワカサギが放出されたのだった。
「ガバッ、ガボォ」
目の前で大イワナがワカサギを食う。エラを開いて全身を出してワカサギを食う。その食う時の音がすさまじい。何ということだ。何という興奮だ。こんな事ってあるのか。

さて、どうするか。
その場所は巨大なコンクリートで出来た水路になっているから足場が高い。5メートル以上あるだろうか。ミノーどころかスプーンも引けない。そこで登場したのがアブ社のシャイナー。知っている人もいると思うけれどプラスチックでコートされた魚の格好をした今で言うジグである。
それをアブのロッド“キャスターデュエット”に6000Cで投げる。そして水流の速さに合わせてシャクリながら釣り下る。

「ゴン!」
一発で食った。でも足場が高いから上手くロッドを操作できない。大イワナをいなしながら下流の岩場でなんとかランディングできた。銀色の魚体。そして60センチ以上は十分にある。こんな大イワナ見た事がない。夢のような釣りの陶酔。歓喜。愉悦。だから釣りはやめられない。人生にそうめったにあるもんじゃあない。
狂宴の後、砂利のプールに生かしておいた大イワナを上から眺める。鮭のように顎が張って鼻が曲ったのはオスだ。メスはただただ太い。まさに潜水艦である。しばらくその美しさにうっとりと見とれる。
60センチ以上の2本を残しリリースする。
キープした2本を1本ずつ両手に下げ、タックルを背負って長いスロープを上がり始めた。2時間以上はかかるだろう。でも心は欣喜雀躍。昇り坂をスキップしたい気持ちだった。








彼は酔っていた。
六月の銀山湖は冷い雨が一日振り続く。

それでも北の岐の流れ込み(当時は釣りができた)で小さい(と言っても尺以上の)イワナを何本か釣って早めに村杉小屋に帰った。
平日のせいもあって、客は僕ひとり。そして囲炉裏の前に彼が座っていた。いつもの雑誌社の人たちもいなく。彼もひとりだった。
軽い会釈をして通り過ぎようとして呼び止められた。何度か顔だけは合わせているから僕への認識はあるようだった。と言うより、グリーンのアムコの1000番、両開きのタックルボックスのトレイにプラグばかりを詰め込んだ僕は、その時スプーン全盛だった時代に、奇異で異端だった。だから目立った。そのせいで僕を知っていたのだと思う。

「大学生だって?」
あの声で大作家は言った。テレビで聞くあの声だった。
「学校は?」
「学部は?」
少し酔った口調で矢継早に聞いてきた。
大作家を前に僕はひとり緊張していた。
「チューオーです。」
「フツブンです。」
少し間があった気がした。
仕草で部屋に入って座るように指示された。

バルザック!!
いきなりフランスの小説家、あの近代リアリズム文学最大の作家の話になった。

話しについていけない・・・・・。
仏文学と言った自分を反省した。
でも、もう遅かった。完膚なきまでにやられた。同時に自分の無知を恥じた。
と同時に、なんで大金をかけて釣りに来て、釣りのヘタなオヤジにそんなことまで言われて・・・・・。血気盛んな若造は本気でそう思った。冗談じゃねぇ。
一発で僕は彼を嫌いになった。

と言うか、それには伏線があって彼と最初に会った印象が悪かった。
それはこうだ。

いつものように明け方にロッジに着いた。
囲炉裏の部屋のうす暗い灯油ランプの下で僕らよりずっと年長の男たちがボソボソと話していた。どうやら寝ずに夕べから話しをしているようだった。聞くともなく聞いているとそれは釣りの話ではなく、なんとも朝から聞くには耐えられないような強烈な猥談だった。そしてその話の中心にいたのが彼だった。テラテラした赤い顔に体に絡み付くような関西弁。これがあの大作家の正体か・・・・・。
でもそれなのにどうしたことか僕はしだいに彼に引きつけられていく。なぜなら、それぐらい彼の博識と豊かな語彙は、それだけで魅力的で他の人を寄せ付けない説得力があった。それは彼の文章と同じくらいにひと言一言生き物のように、自立し、独立して勝手に動きだしていく。

( NORRIS CAST )

釣りに持って行きたい一枚のCD。
パット・メセニー「ア・マップ・オブ・ザ・ワールド」
このCDを持っていく釣りはズバリ、トップウォーターバス釣りだ。
キミは夕方のトップウォーターのプライムタイムを車の中で待っている。まだ夕方には間があって風もある。
東京から500km近く走って来た。この日のために一年待った。ちゃんと仕事をし、金も貯めた。だからすぐにでも釣りをしたいのだけれど、納得し充実した釣りをしたいために、風の弱まるのを待っている。
とくにキミはこのバスポンドに強いこだわりがあった。それは赤い目を持ったバスがこの池で釣れるからだ。「レッドアイバス」このバスが釣れるのは日本ではこの池だけだ。それにこの池は全体がシャローでヒシやジュンサイ、立木などのストラクチャー。バスポンドとしての環境が最高なのをキミは知っているそれがキミを東京から通わせる原動力になっている。
レッドアイは普通のノーザンよりも口が小さい。と言ってもスモールほど小さくはない。その名の通り目は赤く、ヒレも赤身がさしている。体全体も他のバスと比べると明るく、輝いている。一般にそう大きくならないというけれどこの池の赤目は50アップはザラだ。しかもスモールのようにフットワークが良く強い。ストライクも鋭く高い。
もうしばらくすると風も止むぞ。さて左岸か右岸か、どっちからせめるか。

パット・メセニー(ギター・ピアノ・キーボード)は現代のクロード・ドビッシーだと僕は思う。ジャズプレイヤーの粋を越えている。
キラキラと、光りのこぼれるような曲作りは秀逸である。特にこのアルバムはアメリカの自然がオーケストレーションで歌い上げられる。ブラックバスの故郷が美しく奏でられている。そしてこのCDは、彼がコンポーザーでありアレンジャーでもある。
このアルバムはプライムタイムを待つ間の気持ちの昂ぶりを抑えてくれるベストワンだと思うのだ。深々と車のシートに身を沈め、前回のこのバスポンドでの事をキミは思い出している。前回のこのストライク。これならライギョだと思ってキミは強く合わせなかった。ところが舟べりで跳ばれて、バレて、バスだと気付いた。大きかった。50をはるかに越えていた。その時の赤い目が忘れられない。ここのレッドアイはライギョのふりをする。そのことを忘れていた。
今度こそ。キミは腕組みしながら目を閉じてそう思っている。
今日こそ・・・・・。パット・メセニーのアコースティックギターが何とも心地よい。
今日こそ絶対に取る!!

「釣りは芸術(アート)である。」
そんなことは彼しか言えない。彼だからこそ断言できるのだ。
「アートは反自然的な行為である。」
「であるからルアーは自然の分泌物から遠いデザインとカラーでなければならない。」
「つまり、ベイトから離れるほどその芸術性は高い」
「たとえばダーデビルの赤白スプーン。自然のエサには赤白は存在しない。」
「ルアー釣りは受動的なエサ釣りとは根本が違う。同じ場所で粘って釣るのはエサ釣りの発想である。ルアー釣りはだから能動的に積極的に魚のいる場所を探さなくてはならぬ」
「待って釣る釣り方は、それだけで反芸術である。つまりそれは思想が漁であって、誇りあるアマチュアのゲームフィッシャーのするべきことではない。」

だんだんと彼の言うことが僕の体にボディーブローのように効いてくる。じわじわと頭が染み込むように洗脳されていくのが自分でも判る。
ただでさえ相手は大作家。有名な小説家である。それだけで僕は彼に射竦められていた。そして彼の哲学と真理と叡智が、僕を釣り人としてだけでなく人としての人格までも決定的に変えていくことになった。学生生活をこのまま続けていてもいいのか・・・・・。
その彼が村杉小屋に住んで作家活動に専念する、と人から聞いた。事実、別棟に中二階を建てそれにあてたようだった。
彼が銀山湖に移住してから、なぜか彼と会うことはなかった。世間との関係を断ち切ったのだろうか。

彼が銀山湖に住んでいる。それだけで、なおのこと銀山湖はミステリアスな大イワナの伝説の湖となっていく。そのことは、とりもなおさず日本のルアーフィッシングのプロローグとなっていった。それくらい彼の存在と影響は大きかった。
釣りを知的な趣味のひとつとして、魂を揺さぶられるほどの感動的な遊びとして、一般のひとに認知させた男をそれ以前も以後も僕は知らない。
彼が作家活動を銀山湖でするようになってほとんど彼と会うことがなくなった。たまに顔を見ても挨拶程度だった。
元気がない。顔色が悪い。銀山湖にエネルギーを吸い取られてしまったのか。
これは後から聞いた話しだけれど、彼は銀山湖滞在中、一枚の原稿も書けなかったらしい。だから元気がなかったのか。そんなに逼塞していたのか。逆に大作家だからこそそうなのか・・・・・。






その日も朝から雨が降っていて、昼頃にはドシャ降りになった。さすがに釣りを続けることが出来ず、宿に戻って仲間と囲炉裏の前で密造のドブロクをやり始めた。ツマミは漬物や山菜、塩クジラ。相変わらずであるけれど言うことなしである。
仲間と盛り上がっていた。
その時、ひょっこり彼が顔を出した。
そのまま彼は僕の前に座り、一緒にドブロクを飲みはじめた。
その頃になると、この大作家の前で、苦手ではあったけれど、そんなに緊張しなくなっていた。

ドブロクがなくなった。
「ノリくん部屋に行って焼酎を持ってきてくれ」
僕は何の抵抗もなく彼の部屋へ行った。
彼の仕事部屋を初めて見た。
そこは万年床が敷いてあって座卓。資料や原稿用紙が散乱している。まさに絵に書いたような小説家の仕事部屋だった。
書き捨てられた原稿用紙には独特の丸っこい字で文章の断片が書いてある。それはいまでもはっきりと思い出すことができる。
「汚れたビデ・・・・・」「腐りかけた夕日・・・・・」
ああそうなのだ。この何の脈絡もないようなこの一言が彼によって命を与えられひとつひとつが別々に動き出すのだ。まさに開高節の原点を見た思いがした。

後で、村杉小屋のオヤジ佐藤さんが言った。
「ノリさん、後にも先にも、先生の部屋に入ったのはアンタ以外にいない。」






「自分は釣りに救われた。」
そんな意味のことをこの小説家は言った。
ベトナム戦争に従軍したときのノンフィクションは彼の生涯にわたる文学の源泉だと思うし、次の「フィッシュオン」は釣魚紀行という形をしたノンフィクションの名作で、つぎの「オーパ」「オーパ、オーパ」へと続く。

釣りに救われた・・・・・。
それは伸吟の果ての本音だったのか。
僕を仲間として認めてくれたのか。
そのことを聞いてなぜか僕はうれしかった。
そのひと言で彼が急に身近に感じられた。



一七歳年上の大作家であるけれど、釣りはヘタだけれど息子のような僕たちに対して平気でそんなことが言える。そんな人間性に僕は惹かれていく。あの強烈な猥談の男は誰だったのか・・・・・。

あぁそうなのだ。これがあのバルザックの「人間喜劇」と言われる多種多様な人間の気質。人間は一面だけではないということなのか。そう言えば彼はいろいろな側面を持っていた。我が儘だった。強引だった。躁うつがひどかった。いつも話題の中心だった。どんな人間にも強いインパクトを与える人だった。もし彼が生きていればブラックバスの問題はどうなっていただろうか・・・・・。



新宿のホテルであるパーティーがあった。
会場に向かって僕はエスカレーターで上がっていった。
下を見ていると、ポンと開高 健が現れた。

彼が僕を見上げている。
あのよく動く子供のような目で僕を見上げている。
そして笑いながら僕に敬礼をした。
僕は頭を下げた。

それが最期だった。
もっと彼と話をしたかった。
こんな早く逝くとは思わなかった。
悔まれてならない。

(2010年7月)


則 弘祐


生誕80年「開高健の世界」展 (神奈川県立神奈川近代文学館のウェブサイトへ)




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