キミは今いくつなのだろうか。
30年前、もしキミが10歳だとすると、いま職場や家庭でいろいろあるトシだろうと思う。
実はノリさんもそうだったよ。
まだトップウォーターでバス釣りをやっていますか?
30年前、29歳のノリさんはバスのトップウォーターとトラウトのプラッギィングに夢中だった。
仕事の広告やラジオ番組の制作は深夜に回し、空いた時間はすべて釣りに使った。
申し訳ないことに子供がいないせいもあってほとんど家庭は顧みなかった。
本当に釣りのことしか考えていなかった。
そして毎晩のように“フィッシング”誌編集長、吉本 万里さんと会って酒を飲んでいた。
タバコも一日60本以上を喫っていた。
金はなかったけれど気力も体力も一番充実していたように思う。
その3年前ぐらい前だった。 キミは憶えていないだろうな。
亡くなった芦沢一洋さん。そう、あのフライフィッシングの第一人者、アーさんと何とブラックバスの取材になった。
企画したのは当然吉本さんで、たしか日本で最初のバスの取材たったような気がする。
場所は群馬県と埼玉県の県境のある「神流湖」。
夏の暑い盛り、僕たちは、アーさんがバックパッキングの一人用テント。僕はコールマンの大型テントを湖岸に張った。
なぜ民宿に泊まらずにキャンプなのか?テントなのか?
当時、芦沢さんはバックパッキングに象徴されるエコロジカルマインドなアウトドア・スタイルを提唱し、僕は僕で、中を立って歩ける大型テントやベッド。クーラーやストーブ(2バーナー)にランタン。エレクトリックモーターやバッテリー。そして何本ものロッドやタックルボックス。そう、アメリカの野外雑誌に出てくるオーソドックスなキャンプスタイルの実践者だった。もちろんその原点は、僕のバス釣りの師匠、アメリカの軍人チャーリーから教わったものだ。そうTARP(タープ)なんて言葉さえ誰も知らない、まさにアウトドアの石器時代である。
それにしてもいま思うと、吉本 万里という編集者はもうそのときまでに、釣りというのはアトドアライフというライススタイルのファクターのひとつで野外生活、とりわけ生活提案として釣りを捉えていて、たとえば、アイトドアクロージングや車など巻き込んだ「アウトドア・ディ」といったイベントを開催し、彼の主張を展開していった。
彼のいちばん近いところにいたひとりとして、吉本学校の卒業生のひとりとして、彼が亡くなったいまその先見を痛感している。
エッ。そのときの取材は釣れたかって?
もちろんです。だってまだバス釣りをする人はほとんどいなかったから・・・・。それからここだけの話。アーさんだってスピニングタックルで入れ食いでした。バスにマキュロンをつけてリリースする写真。そのあまりの暑さにたまりかねた吉本さんが泳いでいる写真。それはそのときのものだ。
そして、30年前・・・・・。
「ルアーをつくってなんとか生活を立てたい。」
ルアー釣りや模型作りの好きなその男は、勤めていた鉄工場で事故に遭い、その後魚への夢が捨てきれず奥日光の養鱒場で働いていた。ところが体調をくずし奥さんの実家で回復を待っていた。
「応援しよう」
吉本編集長、山周こと山田 周治さんや仲間たちがそう決めた。ただ、お金の出入りが発生する。彼は全くそのことに不向きだった。そこで、広告と放送番組の製作会社だった僕の会社に釣り具製作の項目を加えて名称も「アルファ&クラフト」とした。
そして、その男、西岡 忠司君は「アルファ&クラフト」のクラフト部門社員第一号となった。
「何を作りますか」
「もちろんバスプラグ」
アメリカではアルファベットプラグ、つまりアルファベットを冠したプラグたとえば“ビッグO”や“バルサB”などが発表され話題になっていた。
ハンドメイドでバルサ、さらにラトル入り。
日本人が作るはじめてのオリジナルクランクベイト。アメリカにだってない。基本コンセプトはこう決まった。
そして我々は誓った。絶対にコピーはしない、と。
日本が誇れるルアーを作りたい。
当時、ルアーといえばイミテーションの洪水だった。
人のマネはしない。それがアルファ&クラフトの原点になった。
「出来るか?」
「・・・・・・・・」
社員第一号は黙っていた。けれど目が出来ると言っていた。
それからビンボーだけど仲間たちを巻き込んだ夢工場が始まった。
工場は壊れかかったニワトリ小屋をブルーシートで補強することがスタートだった。
そしてそれから綿のようなスーパーフローディングバルサとの戦いが始まる。
作り方は原始的だった。
バルサ材のブロックを両面テープで張り合わせ、カッターナイフで荒削り、次に回転ヤスリで成形。だから一個一個形が違った。
次にボディーをふたつに分けラトルルームやウェイトルーム、ワイヤーの溝を切り再び接着。さらに表面がツルツルになるまでコーティングの処理。すべての工程で我々はシロウトだった。そしてその度重なる50以上の工程から「バルサ50(ファイブオー)」のネーミングが決まった。
さて、ルアーの表情を決定的に決める「目」はどうするか?
いろいろ迷った挙句、まったくオリジナルでファニーな「寄り目」とした。そして最後に我々のこだわりの証として彼の奥さんがサインを入れたのだった。
日本で始めてのハンドメイド・バルサクランクの誕生である。
こうして吉本さんのバックアップもあって、まず関西から支持が広がって行った。
そして少年のキミは小遣いとお年玉を握り締めて釣り道具屋さんに走ることになる。
プラッガーたちへ。
トップウォータードリーマーたちへ。
大人の少年たちへ。
以下次号。
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バルサ50オリジナルについて
則 弘祐