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SAURUS > エッセイ > 田中秀人 > イトウ愛とカムイの大河 (1)
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Tokyo Rod & Gun Club
田中 秀人
ESSAY: Top Notch


第1話 | 第2話 | 第3話
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~ 憧れから生涯の夢へと



イトウという魚は僕らにとって特別な存在だ。
昭和の40年代。小学生だった僕は「釣りキチ三平 イトウの原野」に刺激されて、ABU 505、501とアンダースピンを手にした。脇に短いハンドルグリップを無理やり挟んで、谷地坊主のキャストを真似したのは僕だけではないはずだ。谷地坊主は超ロングのダブルハンドルで僕はライトアクションのダイワ ファントム。琥珀色のグラスロッドでシングルハンドル。
脇に挟むにはかなり無理があった。
三平が手にしたミッチェルガルシア two in oneには鼻を垂らしながらショーウインドーに貼り付いた。のちにあこがれのアンバサダーを手にするが、その時の少年の手には余るものだった。
最初のアンバサダーはショートツインの‘75 2500C。三平のアンバサダーは5000Cだけど、より軽いものが投げられるという触れ込みに誘われて、釣りの先生だった叔父から2500Cを譲り受けた。思い起こせばかなり恵まれた環境の小僧だった。


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中学1年の夏とアンバサダー。
春蝉しぐれ、透き通る山上湖の青と真夏の突き抜ける空の碧。
入道雲の白が深緑の峰々を押しつぶさんと両者がせめぎ合いを演じている。その天然色の対比と木々の香りは今も脳裏に焼きついている。
「よし…おっっ!シュルシュルシュルーッッ!ブルブルブルッッ… グシャッッッッ…」
手にはこっそり持ち出した父のABUディプロマット651と、叔父から貰った宝物アンバサダー2500C。3gのパンサー(スピナー)を投げた直後にバックラッシュ。糸を巻き直して1投目にまたバックラッシュ。北海道の湿原と巨大なイトウを夢見てキャスト&バックラッシュ。
「だめーっっ…。無・無理。」
明らかに三平よりヘタクソだ。その後はクロガネ学習デスクの棚にディスプレイされることになる。
露払いと太刀持ちはラパラとレーベル。1ドル360円時代の当時、舶来のプラグは高額で一本3,000円以上したと思う。もったいなくて一度もキャストしたことがない。今もまだ未使用のまま、僕のお守りになっている。



そのころ、父の愛読する「フィッシング」という雑誌を毎月楽しみにしていた。中でもひときわ目を引いたのが北海道のイトウの記事。
ラパラのジョイントにレーベルのジョイントミノー…、本州では見たこともない重いスプーンにドジョウでのムーチング…。少年の心は見たこともない北の大地にあっという間にさらわれていった。
手に負えないアンバサダーの横にお年玉で買ったラパラのジョイントとレーベルのジョイントミノーを置いて(7cmというところが少年らしい)、何度も何度も「月刊フィッシング」を見て、枕元に本を置いて北の大地に夢を馳せていた。



「釣りキチ少年 ヒデ」は、運命のごとくルアーフィッシングにのめり込んでゆく。
飛騨の川、リザーバーでイワナやニジマス、アマゴ、ヤマメを狙った。ミノーはタックルボックスのお守りで、主役はスピナーとスプーンでの釣り。
体だけ大きくなってその後、師と仰ぐ則 弘祐氏と出会う。
そしてサクラマスのプラッツギングにも、のめり込んでいった。それでも僕の脳裏にはいつも悠然と泳ぐ巨大なイトウの姿がゆらいでいたのだ。いつか北海道で、1mを超える巨大なイトウを釣りたい…。
ライフワークとも言える苦行の始まりともつい知らず、初恋の人を思い続けるがごとく、イトウへの想いが募っていった。



それでも北海道は敷居が高く、距離だけではなくて色んな意味で遠かった。
内地での大岩魚にスーパーレインボー、サクラマスと本流のビッグトラウトに没頭し、なかなか重い腰が上がらず、イトウへの初挑戦は1997年6月のロシア極東 コッピ川まで持ち越されていった。
その時初めて釣ったイトウは80cmクラス。あの重い引きと強大なトルクに一発で引き込まれてしまった。
すぐ横で目の当たりにした、則さんの1m20cmにはド胆を抜かれ胃袋を握り締められた。そしてさらにメーターオーバーに対する果てしない憧れが膨張していったのだ。
こうなると、もう止まらない。寝ても覚めても頭の中はメーターオーバーのイトウでいっぱいだ。



ロシアに初めて行ったその年の秋。堰を切ったように北海道のイトウにも挑戦することになった。
コッピに同行したスポーツザウルス時代からの釣友、横田 進に誘われ、道北のイトウに初挑戦。ザウルストレインでもずっとお世話になっている東北ザウルスのボス、西村倫明も一緒だ。
3人での弥次喜多道中ならぬ、てなもんや三度笠。
夜な夜なぐでんぐでんに飲み倒して、お天道様と一緒の時間はミノーを終日引き倒した。大笑いして、大暴れして…。だけど覚醒した眼光だけは爛々と何かを見つめていたあの旅。
その旅で…幸か不幸か、僕は初挑戦にして90cmオーバーのイトウを釣り上げてしまったのだ。横ちゃん曰く「ヒデちゃん!90cm釣っちゃったら次はメーターオーバーしか無いよ!」


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それが甘かった。完膚無きまでに甘かった。
もうちょっとでメーターオーバーに手が届くと勘違いしてしまった小僧に、その後カムイ(神)の壁が大きく立ちはだかるのである。「メーターオーバーは、そんなに簡単に釣ってはいけないものなのだ」という神の啓示を、徐々にそして痛いほど思い知らされる事となる。
思い込んだら試練の道を…。



そしてその後の数年間は、とり憑かれたようにロシア極東コッピ川に計6回も通うこととなった。
海の向こうで、1メーター10、1メーター20クラスを筆頭に、13本のメーターオーバー イトウを手にした。
則さんと同乗したボートでの出来事。直前にゲットした1m13cmの巨大イトウよりはるかにでかい海坊主のような頭が水面を割って、その全身を現して僕のシートプス15.5cmを激しく襲ったのだ。桁違いのでかさだった…。おそらく1m40~50cmクラスか…。
あっという間にフックが伸ばされ深く重く青黒い流れに消えていった。
逃げられた相手の話をしても仕方がない。でも則さんが静かにつぶやいたんだ。
「ヒデ。今の一発だけで100万の価値があるよ…。」
それだけ衝撃の出来事だったことを物語る。巨大なイトウに触れ、そのパワーに驚きそして確信した。
「ここまででかい相手と戦うにはベイトしかない…。」
アンバサダーを手にして、ベイトでメーターオーバーを狙うと決めてスピニングは封印した。ベイトキャスターへの道が始まった瞬間であった。


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ロシアでメーターオーバーのイトウを何本も釣ったが、僕にとって、これは北海道のメーターオーバーを釣るための修行である。
国内で釣りたい。だから海外に行って経験値を積み、万全の体制で狙いたい。
「生涯の夢は北海道でメーターオーバーのイトウを釣ること」
できれば流れの中で…。
簡単にはかなわない…と思っていたが、できれば10年ぐらいで釣りたいなと甘甘に考えていた。
最初の北海道イトウ釣行から16年間、夢を追い求めて通い続けることになる。1回の遠征で平均10日間、16年で計26回の釣行。多い年は1年に3回北海道に通った。
日の出から日没まで振り倒した追憶の日々。11月初旬の寒波の中、1週間ノーバイト。
ミゾレが雪に変わり暴風雪が骨の髄までむしばんでゆく。丹頂に白鳥にホワイトアウト…、白は白でも頭の中まで真っ白に終結…。手足の感覚がなくなり、目が開かなくなってきた。
心ではなく精神が…魂が折れてゆく…
「僕にメーターオーバーは一生無理なのか…。」
大願が絶望に変わってゆく。これはもはや釣りではなく、山伏の苦行に近い。遠征期間中、終始一人の孤独な旅もあった。しかし気力を振り絞って立ち続けた。
80cm~90cm級までは苦労して釣ることができたがメーターが大きな壁となって立ちはだかった。それでも通った。それでも北海道に通い続けた。どうしても北海道でメーターオーバーのイトウを釣りたい。
もうダメか……


田中 秀人






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